わたしの原風景~夏の終わりに~
(講演日=2017年9月6日)
夏が来れば思い出す風景がある。
夏空。
ぎらぎらと輝く日差し。
廃れた公園。
その砂場で遊ぶわたし。
わたしは時々、砂から顔をあげる。
すると必ずわたしの向こうには巨大な団地があるのであった。
団地の窓はすべて真っ暗である。
しかしもしかしたら誰かが窓からじっとこちらを見ているような気がする。
そんな風景である。
わたしは現実にこういう風景を知らない。
とするとこれはわたしの想像の風景なのか?
あるいは本や映画の風景をわたしがトレース(すでにあったものをもう一度なぞること)しているのか?
それは、松谷みよ子の怪奇童話『ふたりのイーダ』(講談社発行)。
あるいは、野村芳太郎監督の怪奇映画『震える舌』(松竹映画)。
それとも、やはり、日野日出志の自伝的怪奇漫画『地獄の子守唄』(ひばり書房)。
また一風違うものでは、吉原幸子第一詩集『幼年連祷』(歴程社発行)。
さまざまな書物や映画が暗視の中でクロス(目の前を交差すること)する。
そういった書物や映画の世界ではいつも子供たちが悲惨極まりない受難の運命にさらされているのであった。
わたしはよく幼少期に死ななかったものだと思う。
あの巨大団地の暗い窓の中にはなにか恐ろしいものが巣食っている。
そうして、幼少期のわたしを無残に虐殺しようと狙っているのだ。
それは幽霊かもしれない。
それは人攫い(ひとさらい)かもしれない。
あるいはもっと恐ろしいなにか。。。
わたしの母は戦争体験者である。
目の前でB-29が落としていった爆弾がピカッ!と炸裂したのを本当に見た記憶があるという。
もしかしたら、この風景は遺伝子レベルで母からわたしに引き継がれた映像であるのかもしれない。
するとあの団地の中にいるのは爆弾でこなごなの肉片になってちぎれ飛んだ無辜の市民たちの怨霊なのだろうか。
そんなことを考えながらも夏は終わる。
日差しは日増しに弱くなり、秋風がひんやりと身体を撫でる。
そうして「あの風景」もまた遠ざかってゆく。
また来年の夏が来るまで。
しかしあの団地の中にいる「何か」は牙を梳(と)きながらこう唸っている。
「来年こそお前を殺してやる!!」
「来年の夏こそお前のはらわたを真夏の太陽の下に引きずり出してやる!!」
今年の夏をわたしはなんとか生き延びた。
しかしわたしは来年の夏も生きて乗り越えられるのだろうか?
わたしにとっては夏は死の季節なのである。
そして、わたしにとってのあの原風景も恐らく冥界を象徴するものなのだろう。
わたしは夏空の下でひたすら昆虫を殺していた。
その罪が裁かれる時がくる。きっと来る!!
そんなことを考えながら、わたしは今日もかくかくと震えている。
あの砂場の中でミミズをカッターでズタズタに切り裂きながら。
血みどろで、救いがたく、とても厭らしく、それでいてどこか艶かしいエロティックな風景、それがわたしの原風景(人がある程度の年齢に至ったときに、最も古く印象に残っている風景やイメージ)なのである。
「青虫 ふみにじられ 草の血か 土を染める緑(あを)い死
宴の終り
赤い血は空に流れて 凶凶しい夕やけ
夏草 しげりはじめた 廃いテニスコート
肺病の少女が 暗い窓の向ふにゐる
少女は ぢっと 日々のまつりをみてゐる」
吉原幸子『幼年連祷』(歴程社)より引用。
了&合掌&南無阿弥陀仏。
(黒猫館&黒猫館館長)