小学五年生のある午後のことであった。
その日は「研究授業」つまり県の教育委員会の上の人間が小学校に視察にくるという授業の日で、わたしの担任の女性教師もいつにもなく興奮した調子であることが、小学生のわたしにも感じられた。
授業は「算数」で題目は「三角形を四角形にする方法」であった。(ここでの三角形は『正三角形』とする。)
その授業では、まずクラスでも「優等生」とされていたある女子が一番名乗りの解法を披露した。これが「A」の方法である。
つまり三角形の頂点Aから垂直に三角形を二等分してA-C面をクルリとA-B面にひっくり返す。確かにこれで四角形ができる。その女子児童はいかにも優等生然とした冷ややかな顔で手際よく解法を披露すると涼しい顔ですましていた。
しかしこの授業でもうひとつの解法を披露した児童がいた。
それがわたしである。すなわちBの解法である。
まずA-B面、A-C面、B-C面のそれぞれの中心点を取る。
これをそれぞれD、E、H、とする。さらにB-H面とH-C面の中心点を取る。これをF、G、とする。そしてDーF面とE-G面を切る。そしてD-B面をA-D面に、E-C面をA-E面にそれぞれクルリとひっくり返す。この方法でも三角形から四角形はできるのだった。
この方法を披露したわたしの横に当時の「教育長」が寄ってきた。
そしてこう言った。「凄い、君はロケット博士だな。」
また他の教育委員たちも優等生女子の解法よりわたしの解法のほうにあきらかに興味をしめしていた。当の担任の女性教師はなにかしどろもどろな態度でそわそわしていた。
さてこの「研究授業」はその日一日で終わった。次の日の算数の時間、また担任の女性教師が現れて「昨日の続き」をやり始めた。問題はそこで起こった。なんと女性教師は優等生女子の解法だけを生徒に教えると、わたしの解法を無視してさっさと授業を切り上げてしまったのだ。
わたしは子供ながらに憤慨したがまったく取り合ってもらえなかった。
これがわたしが「学校」というものに不信感を抱いた初めての出来事である。
さてこのような学校教育が生徒に刷り込むことは「答はひとつ」ということである。
三角形を四角形にする解法はひとつしかない。ここから多くの子供が錯覚しはじめる。
「子供にとって大事なことは勉強ができること」
「高校生にとって大切なことはイイ大学に入ること」
「大学生にとって大切なことは良い会社に入ること」
彼らの頭の中ではつねに「答はひとつ」なのだ。こういう所から現在の下世話な流行語である「勝ち組・負け組み」とか「勝ち犬・負け犬」とか「上流・下流」とかが生まれてくる。
こういう言葉の底辺に必ずある考えは常に「人生の答えはひとつ」という学校生活から刷り込まれた教条(ドグマ)である。
しかし現実は違う。わたしが三角形を四角形にする「ロケット式解法」で示したとおり、「答えは人間の数だ
けある」のだ。各人間はひとりひとりで自分の現実と格闘して自分なりの答えを見つけなくてはならない。それは孤独である。誰にも認められないし、褒められないかもしれない。
しかしそのような現実から眼をそらして「答えはひとつ」と錯覚した瞬間から色々な間違いや悲劇が始まるのだ。
「人生の悲劇は『良い子』から始まる」
こんな題名の本があったがまさにそのとおり。良い子、できる子、優等生、勝ち組、そういう連中があとあとどうなるのかわたしには恐ろしい。
現代の日本型総中流神話が崩壊し始めた現在、人生における答えとはなにかを新しい世代の日本人はもう一度模索してゆかなくてはならないであろう。
そんなことに苦悩している元「ロケット博士」の初夏の夜の憂鬱であった。