ユウキが望んだもの
(『ソードアートオンライン』私観)
(2016年3月16日講演)
【この論評にはTVアニメ「ソードアートオンライン」&「ソードアートオンラインⅡ」のネタバレが含まれます。ご注意ください。】
↑SAOオールキャラ大集合↑
本放送時にときに見逃していた「ソードアートオンライン」(2012)&「ソードアートオンラインⅡ」(2014)を先日、全話視聴終了した。
無印が24話、Ⅱが25話だったので合計49話である。
49話といったら、昔のアニメと同じ一年分の分量である。
我ながらよく短期間で全部視聴したものだと呆れているというか感心しているというか、である。
最近の深夜アニメというものは次から次へと大量の新作が現れてくるので、わたしたち視聴者は、どれが後世へ「残る」作品なのか、どれが後世へ「消えてゆく」作品なのか瞬時に判別してゆかなくてはならない。
そういう意味で時代を超えて普遍的に「残る」作品だけを残酷に識別してゆくことは、現代のアニメファンに課せられた課題である。
もちろん時代のあだ花のように「消えてゆく」作品の中にも電光のように一瞬鋭い輝きを発する作品もあるだろう。しかしそういう作品にまでつきあっていては時間が足りないのだ。
だからわたしは現代のアニメ事情を「残酷」と評するのである。
そういう現代のアニメの世界で「ソードアートオンライン」シリーズはわたしが確実に太鼓判を押す。この作品は「残る」。
「ソードアートオンライン」は主にヴァーチャル空間へフルダイヴ(プレイヤーの脳に直接情報をインプット&アウトプットして、ヴァーチャル空間でのリアルな行動を可能とする架空の科学時術)してプレイするタイプのオンラインゲーム世界での現代の高校生「キリト」と「アスナ」の冒険の物語である。
「ソードアートオンライン」は「アインクラッド」編、「ファアリーダンス」編からなる。
「ソードアートオンラインⅡ」は「ファントムバレット編」、「マザーズロザリオ編」からなる。
「アインクラッド」編はログアウトできないデスゲームと化したヴァーチャルゲーム「ソードアートオンライン」から主人公「キリト」とヒロイン「アスナ」がサヴァイバルする話。
「フェアリーダンス」編は「ソードアートオンライン」編で廃人となったアスナを救出するためにキリトが「アルヴヘイムオンライン」というゲームにフルダイブする話。
「ファントムバレット」編はゲーム内での殺人が現実世界への殺人へと結合する不可思議な殺人事件の犯人「デス・ガン」を捜索するために、キリトが「ガンゲイルオンライン」の世界へフルダイブする話。
「マザーズロザリオ」編はアスナと「絶剣」という二つ名の剣士&ユウキの交流の話。
こうして見ると「アインクラッド」編が一番シリアスでハードな印象を受けるのだが、実はそういうわけでもない。キリトとアスナがゲーム内で「結婚」してイチャイチャぶりを見せ付けてくれるところなどは思わずこっちの顔もにやけてしまう。
(↑「アインクラッド編」の見所のひとつ、キリトとアスナのイチャイチャ↑)
「フェアリーダンス」編は古典的な「囚われのお姫様」を地でゆくような話。この話では「リーファ」という新ヒロインが登場する。
「ファントムバレット」編はファンタジー色の強かった「アインクラッド」&「フェアリーダンス」編とは一転してサイバーパンク風な世界へキリトがフルダイブする。
この世界でキリトは「シノン」というヒロインと出会う。しかしキリトとアスナの関係が男女の「愛情」だったとすれば、こちらのキリトとシノンの関係は「友情」というべきもの。「男女の友情」というものが立派に成立することをしっかり教えてくれる。
さらに「ファントムバレット」編では「デス・ガン」という外見からして「いかにも悪役」な悪役が登場するので、単純な完全懲悪モノとしても観ることができる。
わたしとしてはエンターティメントとしては「ファントムバレット」編が一番優れていると思った。
(↑「ファントムバレット編」の「わかりやすい悪役」&「デス・ガン」)
「マザーズロザリオ」編はアスナが主人公で「ユウキ」というプレイヤーと交流する話。実はユウキは現実世界ではAIDSに侵されていて余命少ないという設定。
もちろん最終回ではたっぷりと泣かせてくれる。
わたしが感心したのはこういったヴァーチャル空間での「血湧き肉踊る」ような話だけではなく、アスナが母親から現実世界で「オンラインヴァーチャルゲームのやり過ぎで大学へ向けての受験勉強がおざなりになっている」と指摘されて苦悩する、といった話がでてくる。
これでアニメの観すぎをたしなめられる視聴者の青少年も多いだろう。
さらにヴァーチャル空間へのフルダイブシステムを終末期医療に転用した「メディキュボイドシステム」が登場する。これはもしかしたら今後の現実での終末期医療で実用として用いられるかもしれないシステムである。
こういう「細かい部分」におけるリアリティが、この作品の作品強度を強固なものとして保っている。
最終回、メディキュボイドシステムによる延命が追いつかない状態になって、ヴァーチャル空間での死を選んだユウキは何を望んでいたのだろうか?
それは現実世界への絶望か。
それともヴァーチャル空間への逃避だったのだろうか。
それとも現代のわたしたちがまだ知らない全く新しい種類の希望だったのであろうか。
現実とヴァーチャル空間の境界が曖昧になってゆく現代社会でユウキの死は色々なことを考えさせてくれた。
(黒猫館&黒猫館館長)