「べき」と「したい」の心理学
(2014年2月14日)
〜すべきだ。」
こういうものの言い方をするひとたちが世の中には沢山いる。かくいうわたしもその傾向が強い。しかしこういうひとたちに限ってなにか元気がなかったり、神経を病んでいたりする。なぜであろうか?
わたしが思うに「〜すべき」は外界を自分の思う理想の世界へ近づけようとする努力である。しかし外界や他人が自分の思うままになるわけがない。
また「〜すべき」と言う人間は他人に自分の考えを強制する傾向がある。しかし他人をコントロールしようとする人間は「傲慢」な人間であると思われてひとから嫌われる。
精神医学の世界では「強迫性障害」と「うつ病」の原因は「べきの思考」であるのだそうだ。
「〜すべき」と考え続けると「〜すべき」という思考が「〜しなければならないのではないか」という不安に置き換わる人がいる。これが恐るべき「強迫性障害」という病気の二大症状である「強迫観念」と「強迫行為」の原因である。
作家・車谷長吉氏は『人生の四苦八苦』(新書館)という本で、自身の強迫性障害の記録を赤裸々に吐露している。それによると車谷氏はなんと一日に10個石鹸を使っていた時期があるそうである。
10個石鹸を使って手を洗い続けても、手が汚く思えて手を洗うことを止められないのだ。恐るべき話ではないか。
これはまさに「〜しなければならないのではないか。」という不安の行き着く果ての恐るべき終着駅である。
さらに「〜しなければいけないのではないか。」と外のことばかり気にしていると、「自分」が頭の中からいなくなる。「自分のしたいこと」がわからなくなってゆくのだ。その結果、その人間は外の人間の顔色ばかりうかがうようになってゆく。
こういうことばかりしていると段々、精神が疲れてくる。その疲労の極限に待つものが「うつ病」であるのだ。
全くもって恐ろしい話ではないか。諸君。
「それは血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ」
これは『ウルトラマンセブン』のモロボシ・ダンの名セリフであるが「すべき」の人間はまさにこの「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」をやっているのだ。こんなことをしていたら精神が病んでくるのは当然のことだ。
そこで「〜すべき」から「〜したい」へとアタマのチャンネルを切り替える。
しかしこれは容易なことではない。なぜなら「〜すべき」の人間は「〜すべき」の思考を止めると自分が「道をふみはずす」と思いこんでいるからだ。「正しい行為・行動を行うべきである。」そうでないと「自分が社会から疎外される。」このような恐怖が「べき」の人間の思考の根底にある。
「〜したい」では社会は渡ってゆけない、「〜すべき」の人間は強固にそう思いこんでいる。しかしそれは実は逆なのである。「〜したい」でものごとをやらなくてはなにごともうまくいくわけがないのだ。
「逆立ちして歩いている人間」
評論家・加藤諦三は「〜すべき」の人間をこう喝破したが、全くもってそのとおりである。「〜すべき」の人間は思考形式が逆転しているのだ。
つまり「自分の意志」より「他人の視線」を重視する。これでは人生がうまくゆくわけがない。いやうまくゆかないを通り越して最後には病気になって社会からドロップアウトする。恐ろしい話ではないか。
わたしも日々の文章を「書くべきだ」で書いてしまうことがある。しかしそういう時に書いた日記は大抵、抽象的・独断的でわけのわからない文章が多い。
その逆に精神の源泉からほとばしり出るように書きなぐった文章のほうが、ダイレクトで面白い文章が書けると自負している。
「〜すべき」から「〜したい」へのアタマの切り替えを行う、このことが真の意味での「大人になる」ことであると思う。そのためにはまず自分に正直になることだ。
自分が本当はなにをしたいのかもう一度じっくり考えてみよう。もちろん一朝一夕で自分の「〜したい」を発見することはできないだろう。
もしかしたら「〜したい」の境地に達するには何十年もかかるのかもしれぬ。
「心の欲するままに従いて矩(のり)を踰(こ)へず」
これは孔子が70歳にして辿り付いた境地である。孔子ほどの聖人君子といえど「〜したい」思考で自由自在に生き、かつ、道を踏み外さないようになれたのはなんと70歳であったのだ。
「べき」思考から脱却して「〜したい」思考で自由自在に生きるこのことは一筋縄ではいかぬ。しかしそうしないと生きてゆくことはできない。
なんと人生とは残酷で過酷なレースであるのか!
最後に天才画家・岡本太郎画伯が晩年におっしゃったお言葉を引用して本日の日記を締める。
「ようやく最近、自分の描くものが子供の描くものに似てきた。」
(黒猫館&黒猫館館長)