孤独を生きる
(講演日=2013年7月21日)
1 孤独が恐かった時代。
1980年代。
わたしは神奈川県の某私立大学の学生であった。
わたしの実家は秋田県である。であるから必然的に住居は大学近くのアパートになった。
友だちが少なかったわたしは講義が終了するとすぐアパートに直行することが多かった。
アパートの鍵を開けて中に入る。アパートの中にはクシャクシャに丸めたティッシュやら、食べ物のカスやら近所のゴミ捨て場から拾ってきたエロ本やらが散乱している。
そのようなゴミタメの中に座っているとだんだん心の中が荒涼としてくる。
まるで心の中に風が吹き込んでくるようである。
「寒いッ!!」わたしは絶叫した。
別に温度が寒いわけではない。心が寒いのだ。心が「アパートにたったひとり」の孤独に耐えられないのだ。
わたしは眼を血走らせて、学生手帳に書かれている電話番号を上から下まですべてかけてゆく。たいした用事もないのにである。
当然、意味のない電話をかけられたわたしの友人は不快である。
「いったい何の要があって電話をかけてきたんだッ!!」そうどなられて「ガシャン!」と電話を切られたこともある。しかしわたしの電話は止まらない。
まるで「孤独」という怪物から逃げまとうように、次々と何度も何度も電話をかけまくっていく。
まるで死んだ魚のようなどんよりとしたうつろな眼をしながら、そうやってわたしは恐るべき「孤独」から逃れようとするのであった。
2 友だちが少なかった理由。
さてこのような学生時代、わたしには不思議なほど友だちが少なかった。
わたしは友だちの前ではいつもへらへらしていたし、友だちになにかを頼まれたら絶対に「NO!」と言えない性格であった。
当時のわたしはまるで「友だち」という絶対君主の奴隷であったのだ。
当然のことであるが奴隷と真面目に付き合おうなどという一般人などいるわけがない。
わたしは友だちに媚び、へつらい、おだてて、なんとか友人関係を維持しようと必死になる。
しかしその結果どうだったか?・・・どんどん友だちが減っていったのである。
わたしは恐怖した。
そして憤(いきど)った。
「わたしはこんなにも友だちのために尽くしている!!それなのにどうして友だちが減ってゆくんだッ!!」
これはわたしが生まれて初めて味わう「不条理」の体験であった。
友だちを追いかければ追いかけるほど、友だちが減ってゆく。だんどん友だちが減ってゆく悪夢のような生活の中でわたしは少しづつ精神に異常を来たし始めていた。
3 「孤独」を恐れる若者たち。
さてこのような経験は現代の若者諸君にもあるだろう。
わたしが見聞した話ではある東京の都立高校の高校生などは24時間ひっきりなしに携帯やらメールがかかってくるそうである。
「そうしないと落ち着かない。落ち着かないどころか自分が友だちの輪の中からはじき出されてゆくのが恐い」のだそうである。
当世の学生諸君の間で流行っている流行語で言えば「便所飯(べんじょめし)」という言葉がある。
これはなにかというと「ひとりで食事しているのを見られるのが恐くて仕様がないから、便所の個室でひとりで食事する」という意味だそうである。
これらはやや極端な例であるにしても、わたしはこういう若者たちの気持ちが全くわからないわけではない。なぜならわたし自身「孤独」に恐怖した一時期があるからだ。
決して「孤独」に対する恐怖は神経病気質な若者の特殊な病例ではない。むしろ普遍的にいつの時代にも「孤独」に対する恐怖は世界に毒ガスのように充満している。
4 「つきあい」を拒否する勇気。
さてここでわたしから提案がある。
孤独が恐くて恐くて仕様がない諸君、一度「友だちとの付き合い」を自分から拒否してみてはいかがだろうか?ということである。
これは恐ろしいことである。
自分から孤独の深淵に突っ込んでいくのだ。
泣きたくなるかもしれない。叫びたくなるかもしれない。破壊衝動がこみあげてくるかもしれない。
しかし真に重要なポイントは実はそこなのだ。
「つきあい」を自ら拒否して、孤独の中に自分の身を禅僧のように置く。
そうすれば、最初はありとあらゆる恐怖が貴方を襲うだろう。
ありとあらゆる百鬼夜行の群れ!!その恐るべき怪異乱舞!!
しかし時間が立ってくればだんだんとそういった恐怖が薄らいでゆく。
その恐怖が薄らいできた瞬間にポジティブな行動を起こすのだ。
まずわたしは「部屋の整理」をお勧めしたい。孤独に慄(おのの)いている人というのは視線が外部(他人&友だち)にばかり向いているので、案外と自分の身の回りことができていないものだ。それゆえわたしは少しづつでも良いから「自分の部屋の整理整頓」をお勧めする。
次に「読書」をお勧めする。
言うまでもなく「読書」というものは他人との対話であると同時に自分との対話でもある。
ふたりで一緒に読書することができないように、「読書」とはたったひとりで行われる孤独な営為なのだ。
最後に「自分を掘り下げる」行為をやってみよう。これは孤独でなくては絶対にできない行為である。
「自分は本当は何がしたかったのだろうか?」
このような問いかけを自分に質問して自己の中に沈殿してゆく。これは換言すれば「思索」ということであり、自分自身を他者(友だち)から取り戻す極めてラディカルな行為である。
もしこの「思索」が成功すれば貴方は「大人」へと成長する。
つまり貴方は「自分の本当にやりたいことを掴んだ」のだ。
孤独にはこういう様々な利点がある。
「つきあい」を拒否して得られる時間をこういった精神的修養に当てる、これは「高み」を目指す人間なら必修科目と言って良いだろいう。
5 「孤独」から「孤高」へ。
さてわたしは前節で「高み」という言葉を使った。
「高み」へ登る、つまりこれは人間の精神的成長を意味する。
「孤独」なくしては人間の精神的成長などありえない。
これはニーチェもキルケゴールも強調していることである。
人間は孤独なときにこそ力を伸ばすことができるのだ。
そして十分に成長した人間は「孤独を楽しむ」ことができるようになる。
こういう人間はもはや「孤独」ではない。むしろ「孤高」な人間と言うものなのだ。
「孤高」な人間はもう友だちに媚びへつらう必要もない。むしろ超然として相手に対することであろう。
「ひとりでいるときが一番おちつく」こういう境地に至った人間にはなにかこう「気高さ」というか「気品」というものがにじみ出て来る。昨今の流行語で言えば「オーラ」と呼んでもいいだろう。
こういうオーラを身にまとった人間の周りには自然と友だちの輪ができてくる。
逆説的であるが「つきあい」を拒否して孤独を選んだ人間に最終的に人生の伴侶ともいえる「親友」ができるのである。
「群れるな!!散れ!」
これはある漫画のセリフであるがわたしは現代の若者諸君にこう檄を飛ばしたい。
真に豊かな生活は孤独から生まれてくる。
そのためには「自ら孤独を選ぶ」このことはあまりにも重要な人間の課題である。
最後にわたしが敬愛する詩人&谷川俊太郎師の言葉をもってこの日記を締めさせていただく。
「万有引力とは引き合う孤独の力である。」谷川俊太郎『二十億光年の孤独』(創元社)。
(了&合掌)
(黒猫館&黒猫館館長)