海と人生
(講演日・2008年8月14日)

今年も海の季節がやってきた。
親子連れ、カップル、友だち同士。
さまざまな者たちが海を訪れ、つかの間の休息を経て、またありふれた日常へと帰ってゆく。
わたしもまた海へ行ってみたいと思う。
今年こそは。
と。
わたしの実家は海が近い。
友だちの少なかった高校時代のわたしは、学校の帰りにひとりで必ず海に寄ったものである。
高校が面白くなく、実家でも居場所がなかったわたしにとって、海は最高の友だちであった。
海はたえまなくその様相を変える。
光。
色。
形態。
そして押しては返す波。
その規則正しい運動は地球そのものの脈動なのではないか。
高校生のわたしはそう思ってひたすら日没まで海を観ていたものだ。
わたしの敬愛する哲学者であるカール・ヤスパースもこう言っている。
「海とのかかわりには、元来哲学するという気分があるが、私は子供の頃から無意識のうちにそうしていたのであった。」
カール・ヤスパース『運命と意志』(以文社) 林田新二訳、(9p)
幼少の頃から仏蘭西マルシェ地方の海を見て育ったというヤスパースは海を自身の哲学の重要な源泉と思っていたようである。
もしヤスパースが海を見て育たなかったらあの「超越者」のインスピレーションも彼の頭上に降りなかったのではないか。とわたしには思われる。
その後、わたしは東京へ上京した。わたしは20代のほとんどすべてを東京で過ごしたが、楽しかった思い出といえばやはり「海」である。
わたしと男性ひとり、そして女性ふたり、合計四人というメンバーであった。なぜか毎年海に行くのはそのメンバーであったのだ。
四人で私鉄・小田急線「江ノ島」行きに乗り、約二時間かかって江ノ島へ到着する。
そして焼けるような砂浜をはだしで歩きながら波打ちぎわに向かう。そして華やいだ楽しい海での遊びが始まる。
「これほどまでに楽しい時間というものが人生に存在していたのか。もしこれが幻覚ではなく現実であるとしたらわたしは現在、人生で最も幸福な時期にいるのかもしれない。」
いつ果てるともなく続く長い午後に、砂浜に寝そべってぼんやりとわたしはそんなことを考えていた。
その後、わたしはある事情から東京を離れることとなった。当然その後、海にも行かなくなった。
わたしの好きな映画に『ビックウェンズディ』(ジョン・ミリアス監督、1978、米)という映画がある。
この映画のラストで主人公は自分のサーフボードを少年に手渡すと海から去ってゆく。これは「海」というものが「無限の可能性」つまり「青年期」の象徴として捉え
られているのではないか。そして「海から去る」とはつまり「青年期の終焉」を告げるものではないか。
わたしの青年期もまた東京との別れ、そして海とのわかれと共に永遠に終結したのだ。
しかしその後、わたしはまた海へ行きたくなってきた。
高校時代の海は孤独を癒してくれる海であった。
東京時代の海は人生の真夏ともいえる灼熱の海であった。
今度 わたしが海に行ったら海はどんな様相をみせてくれるのであろうか。今から楽しみだ。
最後に一首引く。
「少年のわが夏逝けり あこがれしゆえに怖れし海を見ぬまに」
『寺山修司全詩歌句』(思潮社)より引用。
(黒猫館&黒猫館館長)