わが地獄篇

 

(2014年2月10日)

 

 

 「地獄よ」


 地獄よ ぼくの傍に来い
 地獄よ ぼくの傍に来て ぼくを包んでおくれ
 おまえのその血の匂いが ぼくは死ぬほど好きさ
 ああ血の匂い ぼくはおまえに包まれていると
 むせ返るような懐かしさと 安らぎを覚えるのさ
 さあ今夜もいっしょに 安酒でも飲もうよ
 夜が明けるまでの 束の間の暗黒の中でさ

 地獄よ 早くぼくの傍に来い

 ああ地獄よ ぼくの故郷
 ああ地獄よ ぼくの父
 ああ地獄よ ぼくの母
 ああ地獄よ ぼくの命

 ああ地獄よ ・・・・・・


シンイェ・アンツー作 「地獄詩集」より



   




 T

 わたしの幼年期は極彩色で彩られている。
 もちろんその極彩色は七色の花園のそれではない。ドクドクしいペンキ絵の極彩色であった。


 ある時は角川文庫の江戸川乱歩シリーズの宮田雅之の切り絵であり、またある時は医学書の内臓図譜であり、またある時は丸木位里の原爆画集に描かれた血まみれの裸体の群舞なのであった。
 そのような本の中でもわたしにとってが最もショキングであったのは立風書房の『地獄大図鑑』(ジャガーバックス)という本だ。(嗚呼!昔の児童書の子供に対するあまりの容赦なさよ!)『地獄大図鑑』をひとたびめくれば石原豪人や柳沢の無残極まりない「地獄絵」が魔界のサーカスのように躍動する。
 ある亡者は全身の皮を剥かれて全身の筋肉がそのまま露出している。
 またある亡者は黒い糸で線を引かれてその線にそって鋸でひかれているではないか!

 幼年期のわたしは陶然とした。
 死んだらこうなるのか・・・死んだらこうなってしまうのか。。。
 幼年期のほの冥い絶望の中でわたしは妖しい期待を胸に感じていた。
 それは残酷性へのある種の渇望、つまりわたしの中に眠るサディズムの萌芽であったのかもしれない。



 U

 今日地獄を論ずるものはみな一様に「地獄はこの世にある」と地獄について結論する。
 仏教関係の啓蒙書を矢継ぎばやに発表して、ベストセラー街道を突っ走る五木寛之。
 さらに「梅原学」で知られる日本精神史の重鎮・梅原猛でさえも『地獄の思想』(中公新書)の中で人間の内なる地獄について説いていた記憶がある。

 なるほど、法然・親鸞の系譜、つまり浄土真宗の世界から見ればこの世のありさまこそまさに「地獄」であるだろう。
 毎年、うなぎのぼりに増加してゆく自殺者。子が親を殺し、親が子を殺す。手足切断死体発見!の文字が新聞に躍る。
 いじめ・虐待。大規模なテロ・・・このありさまを見ればまさに「この世の地獄」がわたしたちの前に現出しているように見える。

 しかし・・・とわたしは考えたい。
 本当に地獄とはこの世の比喩であるのだろうか。なるほど無残な事故も残虐な殺人事件も「地獄」には違いない。
 しかし大半の人間は事故とも事件とも無縁に一生を終える。
 「死後の審判」によって堕されるこの世のものではない地獄、そちらのほうがこの世の地獄よりもっともっと恐ろしいではないか!
 天台の魔僧、源信によって表された『往生要集』、この中にこそ真(まこと)の地獄はある。
 恐らく源信は「死後の審判」を信じていたのであろう。七大熱地獄、あるいは七大寒地獄の描写の持つあまりといえばあまりのナマナマしさよ!
 それはもしかしたら地獄の亡者たちの絶叫が源信には聞こえていたのかも知れない。
 そうでなければあれほどの描写ができるものか。亡者たちの絶叫を緻密に文章に翻訳した霊界文書、それが『往生要集』であるようにわたしには思われる。



 V

 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとなったと言われる人物、藤原道長はその臨終の際に仏像の手の部分に五色の紐を巻きつけ、その紐の一端をかたく握り締めて臨終に臨んだという。
 平安貴族たちはみな、道長と同じように死期が近づいたら必ずこの「五色の紐」を握り締めるのが通例であったという。
 嗚呼!平安貴族たちのなんという素直な地獄への畏れぶりであろうか!
 「極楽へ連れていってくれ!!地獄には堕ちたくない!!」という道長の最期の絶叫が聞こえてくるようなエピソードである。
 さよう、現代のわたしたちもまたもっともっと地獄を畏れるべきなのだ。
 もちろんそれは「人間のうちなる地獄」などという賢しげなものではない。
 「死後の審判」によって確実に送られるべき厳然たる物理的な地獄だ!!



 W

 さて、わたしはなぜこんなにも地獄を渇望するのであろうか。
 それはわたしの中にある「サディズム」などという精神医学上のクリシェ(決まり文句)で片付けられるものではない気がする。

 わたしは幼年時のみならず大人になった現在でも地獄を偏愛している。

 それは時には中川信夫・神代辰巳・石井輝夫、各監督の『地獄』という映画であるだろう。
 そしてある時は日野日出志の漫画『地獄変』(ひばり書房)であり、
 そしてまたある時は、わたしが偏愛する「SMビデオ」、これもまたある種の卑近な「地獄」の姿であるのかも知れない。

 それらの「地獄」のなんという魅惑的であったことか。
 性的興奮以上に身の打ち震えるような興奮・・・

 そしてさらに最近では、わたしは執拗に地獄のような絵を漁っている。

 日本の「地獄絵」はもちろん、西洋美術の世界を眺めても、クラナッハ、ボッシュ、ブリューゲル、ゴヤ、など執拗に「地獄」のようなビジョンを描き続けた画家は多い。

 そして西洋暗黒史の裏面に仄見える悪の巨人、マルキ・ド・サドの影・・・

  
  
 Y

 
  「悪」!そして「悪への憧憬」だ!!
  これらの地獄のビジョンの映写師たちを突き動かした衝動は!!
  まこと人間の中にある悪の存在が地獄を創造しているのだ。
  人間の中に「悪」がある限り、地獄は永遠に人間を苦しめ続けるであろう。
 
 わたしの中にもまた「悪」はある。
 ある時、わたしはふッと思う。
 「目の前を歩いている人間に後ろから刺身包丁を持って襲い掛かり、メチャクチャにその人間のはらわたを切り裂いてみたい!!」このように思うわたしを「変質者」と笑うことのできる人間が果たしているのであろうか。
 
 人間ならば誰でも「悪」をそしてさらにその代価としての「地獄」をかかえていきている。

 その「悪」が死後の審判で裁かれるのだ!
 
 願わくば、この稿の読者である貴方が地獄に堕ちることがないように。

 (メメント・モリ(死を想え))



   ※               ※



 最後にわたしはいつも、そしてこれからもこう叫んでいることだろう。

 「人間に悪を仕込んだのは神ではないか!その神が人間を地獄へ堕とすとは、あまりに、
あまりに不条理だ!!」

 沈黙。
 神は黙したままなにも語らない。

 神は死んだのか。
 それとも最初からいなかったのか。・・・


 (了)

 

(黒猫館&黒猫館館長)