理想の死に方

 

(2012年8月21日)

   

 

 

 1 「死」を考える日常


 わたしは一日に一回必ず「じぶんの死」について考える。

 もちろん若い頃から考えていたが、最近「死」について考える頻度がますます高くなってきた。これはおそらく老化による衰弱がわたしの肉体に始まっているからであろう。
 気がつけばぼんやりと「死」について考えている。

 それでは「死」は恐怖なのか?と問われるとわたしとしてはそういうわけではない。
 わたしはエピクロスの原子唯物論の信奉者である。ゆえに「死」とは肉体を構成する原子の分解であり、それ以外の何ものでもない、と案外「死後」については楽観的である。
 天国も地獄も生まれ変わりも存在しない。もちろんそう考えたくない方はそう考えたくなくてもよろしい。じぶんの死生観を他人に押し付けることなど誰にもできはしない。
 唯、わたしは「死んだら虚無」、これがモットーである。

 しかし本当に恐いのは「死の瞬間」である。
 もしその瞬間に激烈な苦痛が訪れるとしたら。。。そう考えると身震いするほど恐ろしい。

 「死の瞬間」を安楽に乗り越えることができたら。。。そう考えるとわたしにとって「死」とは苦悩と苦痛に満ち溢れた苦界としての現世から離脱できる大いなる救済なのである。



2 「病死」のいやらしさ


 それでは具体的にどんな死に方で死にたいか?と問われると返答に困る。
 世の中には数知れぬいろいろな死に方がある。「これがいい」と選ぶのは案外に難しい。

 まず「病死」は絶対嫌である。

 現代の日本人のほとんどが病死で死んでいるとはいえ、「病死」ほど苦しいものはないと思う。その中でも特に「がん」が一番嫌である。
 「がん」は正確には「悪性新生物」と呼ばれる。要するに「がん細胞」という新生物に肉体の内部から寄生されて、じわじわ内側から殺されてゆくのだ。
 これはいやらしい。実に陰惨な死に方である。まるでエイリアンに寄生された宇宙船乗組員のようだ。
 幸いわが家系に「がん」で死んだ人間はいない。
 しかし安心はできない。「がん」は遺伝だけが原因ではない。なにかの拍子にもし「がん」にかかったら。。。わたしはオランダに亡命して安楽死を申請するつもりである。(オランダでは安楽死は合法である。)

 三大成人病の残りふたつ「脳梗塞」&「心筋梗塞」は「がん」よりはましとは考えられる。
 しかしこういう血管の病気で死ぬ瞬間の苦痛は激烈なものであるらしい。
 「心筋梗塞」から生還した知り合いのおじさんが言っていた。「痛い、とにかく痛いんだ。胸が。そしてそれにもましてなんともいえない絶望感。あれはもう二度と味わいたくないな。」

 その他にも「膠原病」「イレウス」「白血病」「骨肉腫」「法定伝染病」「破傷風」「クローン性大腸炎」など数知れぬ種類の死に至る恐ろしい病気がてぐすねひいて人間を待ち構えている。
 おお、なんという恐い、恐い、まさに「病気」だけでは死にたくない!とわたしは恐怖の絶叫をあげてしまうのだ。



3 死に方いろいろ


 「病死」が恐いからといって、なにも「病死」だけが恐ろしい死に方ではない。
 その他にも恐ろしい死に方は万の単位で存在しているだろう。

 まず「戦死」。。。「な〜に、わたしぐらいの年齢になれば兵隊にとられっこありませんよ。はっはっは。」と開き直る人がたまにいるが、もし中国やらロシアやらが日本に攻めてきたらどうするのか。老人でも戦わざるを得ない。
 鉄砲玉が飛んでくるだけで身震いするほど恐ろしいが、それより嫌なのは爆弾による爆死である。内臓や手足がバラバラに飛び散るのだ。想像するだけでさむけがする。

 「自殺」も嫌である。
 「首吊り自殺」は比較的楽らしいが「比較的」という言葉を忘れてはいけない。縊死の死体は目玉や舌が飛び出し、糞小便を垂れ流し、陰茎をびんびんに勃起させているという見るも無残なものであるらしい。
 「飛び降り」も恐い。岡田有希子の自殺現場写真を見た人は知っていると思うが、内蔵がぶっちゃけるように飛び散るそうである。
 「入水」・・・これだけは避けたほうが良い。人間の死に方で一番苦しいのは「水死」という説があるくらいである。胃や肺の内部が水でパンパンに膨れ上がる、と想像するだけで厭らしい。
 結局、もし本当に自殺するとしたら「凍死」がよさそうである。しかし家の庭で凍死はできないだろう。深夜にスキー場まで車で行って、そこから山に登って眠ってしまうという方法が一番現実的だ。しかし恐ろしいほど手間がかかる。

 その他にも「他殺」「刑死」「拷問死」「事故死」「被曝死」など死に方はいろいろあれどどれも嫌である。
 もっと楽で手軽な死に方はないものか。



4 理想の死に方


 わたしは若い頃、「腹上死こそ理想の死に方である」と思っていた。セックスの真っ最中に昇天できるのだ。これはまさに「本望」というべきもので あろう。まさにジョルジュ・バタイユの書物の題名を借りるまでもなく「死を前にした歓喜の実践」である。そのように思っていたのだ。

 しかしよく考えてみたら「腹上死」といえども「単なる心臓発作」なわけである。心臓発作であるから心筋梗塞と苦しさは変わらない。ロマンチックな味付けはもう沢山だ。

 結局、一番楽な死に方は「老衰」である、という結論に至る。
 縁側で日向ぼっこしていたら、いつの間にか死んでいた。これはすばらしい。こういう死に方をしたい。
 わたしは満100歳で老衰で死ぬことを目標にしているが、そううまくいくだろうか。
 人生がどう転ぶかわからないのと同様に、死に方もどうなるのか生きている人間にはわかりっこないのだ。

 嗚呼!!できたら我にできるだけ安楽な死を!!と神に祈ってみても無駄だった。わたしは無神論者(キリスト教的)である。であるから今日もびく びくと「肉は少なく、なるべく野菜を食べて」病気にかからないようにしているわけである。小市民的であるとバカにされても仕様がない。人生で一番恐いのは 「苦痛」であるからだ。

 嗚呼!!運命よ、本当に我に安楽な死を与えたまえ!!!


(了)合掌。

 

 

 (黒猫館&黒猫館館長)