【中東紀行 61】トルコのトイレ事情

 

  

 

 

 

 人間とは何か?・・・
 哲学的な問いのようであるが、科学者にこの問いを問うてみれば意外と簡単な答えが返ってくるそうである。

 「人間とは一本の管(くだ)である。」

 管であるから「入れて(食べて)、出す(排泄する)」ことがその主要機能であるわけだ。
 確かに「食べて排泄する」ことが可能なら、少なくても死ぬことはない。

 そのような意味でトルコについて語ろうとするならば「食べる」ことと共に「排泄する」ことも語らなくてはならない。
 それは具体的に言うならばトルコのトイレ事情についてである。




       ※            ※



 グランドバザール内部から集合場所のグランドバザール正門へゆっくりと戻ってゆくわたしと斎藤さん。
 そう、ゆっくりとぬかりなく。そうしないと迷子になってしまう!

 あ・・・見えてきた、見えてきた、正門だな・・・と思ったらなんだかトイレに行きたくなってきた。
 わたしはハタと困った。
 今までツアーの最中は全部ホテルのトイレかドライブインのトイレかレストランのトイレを使っていた。これらのトイレは全部日本と同じ洋式の水洗トイレであった。

 しかし今回は公衆トイレに入らざるを得ない。
 ふと見ると正門の横に公衆トイレがある。わたしは公衆トイレに行くことに決めた。斎藤さんも一応トイレに行っておきたいそうである。

 トイレの入り口ではなんだか怖そうなおじさんがにらみをきかせている。わたしが「アイ・ウオント・ゴー・トイレ」というと「1トルコリラ(57円)」とおじさんが言う。幸い小銭は残っている。1トルコリラをおじさんに渡すとわたしはトイレに入った。

 トイレの内部は個室が5部屋ぐらい並んでいる。
 「ぎいー・・・」とわたしは個室のドアを開いて中に入った。なにか変だと思う。そうだ、鍵がない。トルコの公衆トイレにはなんと鍵が無かったのだ。これは「ノックしてから入れ」ということだろう。ノックしなかったわたしは冷や汗を流した。

 てきぱきと用を足す。
 さて流そうと思うと今度はレバーがない。またわたしは冷や汗を流し始めた。・・・ヤバイ。と思うと風呂場で使うような小さなタルが置いてある。このタルで水を汲んで自分で流せ、ということだろうか。
 水道から水を汲んで自分で流す。
 これが面白いように流れていく。
 トルコのトイレは意外と合理的なのであった。

 さて個室から出ると手を洗う場所がある。
 なんとキチンと石鹸とちり紙が置いてある。これは日本のトイレにはない気配りである。見ているとトルコ人はみな石鹸をつけて念入りに手を洗っている。
 日本の公衆トイレで石鹸で手を洗う人などほとんど見たことはない。トルコ人は非常に清潔好きな人々なのであった。

 ようやくトイレから出る。
 斎藤さんはまだ来ていない。
 
 トルコのトイレ、それは一見原始的であるが実は非常に清潔なトイレなのであった。原始的であるから不潔とは限らないのである。
 
 やがて斎藤さんがトイレから現れる。「わたしびっくりしちゃったわ〜・・・」という斎藤さんにうなずきながら、わたしたちふたりは再び集合場所であるグランドバザール正門へ向かった。

(画像はトルコのトイレ)
 

 

 

 (黒猫館&黒猫館館長)