◆黒猫館日常日記◆
第二章
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というアニメを最近観ている。
登場人物は「レナ」「リカちゃん」「みおん」「しおん」といったカワイイ系の名前のヒトタチばかり。
外見も名前に比例してカワイイやつらばっかり。
ではその連中の頭の中身もカワイイと思ったら大間違い。このアニメの見所はカワイイキャラが突如、恐いキャラに変貌する点にある。
岐阜県の山中に位置する「雛見沢」、そこで突如巻き起こる連続怪死事件、東京から引っ越してきた主人公・圭一はこの土着的な因縁渦巻くどろどろとした世界に次第に巻き込まれてゆく、というのが大まかなストーリー。
要するに「ひぐらしのなく頃に」は萌えアニメの皮を被ったサイコホラーアニメなのである。横溝正史とかが好きな人にはたまらない内容かも知れない。マニヤが大好きな残酷シーンもたっぷりだぞ。ふひふひ。
なお「ひぐらしのなくころに」では「謎」は全部解決されない。「ひぐらしのなくころに 解」という解決編で謎が解決されるという凝ったつくりになっている。
冬の夜長を恐い世界に浸りたいひとはぜひ観てくれたまえ。ただしますます涼しくなってしまうことは間違いなしである。
注>DVDは全9巻で一巻3話入り。全国レンタル店で大好評レンタル中。
のっけからカミング・アウトしてしまうと、わたしは「韓流」の大ファンである。
「韓流」とはご存知ない方のために説明すると、日本における韓国の映画、ドラマ、音楽(K−POP)の大流行の総称である。
わたしは朝日新聞主宰の「無料映画鑑賞会」で「猟奇的な彼女」や「ボクの彼女を紹介します」を観て主役のチョン・ビヒョンのエキセントリックな魅力に魅入られて大ファンとなった。その後、その影響でドラマ「冬のソナタ」「夏のワルツ」「秋の童話」などを観まくって感動のあまり号泣したのである。
いったいなにがこれら「韓流」作品がわたしをとりこにしたのであろうか。
その答は恐らく日本ではすでに失われてしまった感にある、あまりに美しい男女のプラトニックな愛がてらいもなく「韓流」では語られているためだろうと思う。
「冬のソナタ」を例にとれば、チューサン、ユジン、サンリョクの三人の男女の三角関係が少しもどろどろにならず、むしろすがすがしい語り口で展開されている。日本ではもはや死語になってしなった感にある「純愛」の姿がここにある。
そして全篇を彩る美しい音楽、あえて「冬」の舞台を限定した設定など「冬のソナタ」の見所は多い。
まだ「韓流」を知らない諸君はぜひ「冬のソナタ」を入門編として「韓流」に入門してほしいものである。「冬のソナタ」を堪能したら次は「夏のワルツ」をお勧めする。
さて「韓流」というと「純愛」の面ばかり強調したが、実は「怖い」側面もあるのである。ウソだと思ったら「韓流ホラー映画」・「グエムル」をご覧になってみたまえ。そのあまりにリアルなクリーチャーの造形に悲鳴をあげるぞ。ふふ。
という漫画を最近読み耽っている。
なんでも日本テレビでアニメ化されて「爆発的な」人気であるとか。
ブックオフにも置いていない。きっと物凄い人気があるのであろう。
というわけで。
ようやくこの話題の漫画『クレイモア』(集英社)1〜7巻(現在は13巻まで出版されている)を読み終わったのであるが、非常に楽しいひさびさの少年漫画体験であった。
場所はどこともしれぬ異世界、そこでは「妖魔」といわれる怪物どもに人間が脅かされていた。しかしそんな人間たちに救世主が現れた。それが謎の戦士「クレイモア」たちであった!・・・とケレン味十分な出だしで大満足。妖魔とクレイモアの激戦に大興奮!・・・と思ったら、実はこの『クレイモア』そんなに単純な漫画ではなかった。
1・2巻では主人公・クレアの登場が描かれ、3・4巻では時代をさかのぼって、そんなクレアの母親代わりとなる伝説の戦士・テレサとクレア誕生の秘密が描かれる。そして5巻以降では妖魔よりより格上の存在である「覚醒者」とクレイモアの死闘が描かれる・・・という大変に凝った展開。
少年漫画といえば「悪いヤツをぶっ飛ばす」漫画であると考えていたわたしが浅はかであった。昨今の少年漫画は昔より格段に進歩しているらしい。
ともあれこの『クレイモア』は人気に見合うだけの力作漫画であることは確かである。ブックオフにないならぜひゲオを探してみてくれたまえ。売筋漫画はブックオフよりゲオのほうが置いてある確率が高いようだ。(わたしもゲオでこの漫画をゲットした。)
新世代の漫画を知るためには、もはや必読と言ってよいほどの名作漫画に今後成長する可能性は大である。注目!
わたしは普通の人間である。
別に聖人君子でもなければ極悪人でもない。であるから普通にお金が欲しいし、普通に社会で認められたい。要するに普通に「成功」したいのだ。
そういうわたしであるから「成功本」は大好きである。『金持ち父さん貧乏父さん』『ユダヤ人大富豪の教え』『スイス人銀行家の教え』は今でもわたしのバイブルであるし、松下幸之助の『商売心得帖』『人生心得帖』は座右の書である。その他でも三笠書房の「知的生きかた文庫」やダイヤモンド社から出ている一連の中谷彰宏の本は繰り返し読む。
さてそういうわたしがゲオで一冊の新たな成功本と出会った。それが清涼院流水の『成功学キャラ教授』(講談社)である。
この本は函の絵が漫画風でなにやら「これで本当に成功できるのか?」と心配になってしまう装釘であるが、ご安心なさい。内容は今まで出版された「成功本」のエッセンスを抽出したとも言える極めて内容の濃い書物になっている。
またストーリー仕立てで書かれているので楽しく成功哲学を学ぶことが出来るのも大きな魅力だ。
さて諸君、さまざまな「成功本」を読んできたわたしから見ても本書は極めてお勧めできる。諸君が「本当にその気になって」(←ココが大切)本書を熟読すれば必ず得るものは大きいだろう。
さて、もう諸君は成功し始めているのだ。このわたしの『成功学キャラ教授』のレヴューを読んだ直後から。これがどういうことであるか知りたければ即座にブックオフかゲオに走って『成功学キャラ教授』をゲットするが良い。
さて、それでは、この「キッカケ」をどう活かすかは諸君次第である、とだけ言って本日の日記を締めくくるとしよう。
ウゼ美「なによ〜リタって?」
マジオ「もしかしてリタ・ライオン?あのボディビルダーの??」
キャラ教授「馬鹿者!それはリサ・ライオンじゃ!!メイプルソープの写真はわしも好きだがの。うほうほ。」
ウゼ美「じゃあなによ・・・うぜ〜ぜ、教授。」
キャラ教授「リタとはつまり「利他」、他人に利する行為をすることじゃ。」
ウゼ美「自分のことだけで精一杯なのに、、、他人のことなんて・・・うぜ〜」
キャラ教授「ウゼ美君はまだまだじゃな。マジオ君はどうじゃ?」
マジオ「他人になにかしてあげることは好きだけど無償じゃちょっと・・・
キャラ教授「そこじゃ!大切なとこは!!」
ウゼ美「いきなり何よ・・・教授・・・うぜ〜ぜ・・・」
キャラ教授「見返りを求めない「利他」それこそが「絶対成功法」の奥義なのじゃ!」
マジオ「だって教授・・・見返りを求めないなら、タダ働きじゃん。アホくせーよ。」
キャラ教授「マジオ君、他人に見返りを求めない無償の愛、そのような態度で他人に接していると、今度は他人からの愛を「無償で」受け入れることができるようになる。わかるかな?」
マジオ「ちょっと、難しいな〜。要するに他人の好意を素直に受け入れられるってこと?」
キャラ教授「イイ線を行っておるぞ。マジオ君。「上手くいっていない」人間は「愛されることになれていない」ものだ。他人がみな敵にみえておる。そこで「素直に愛を受け入れられる」体制へ自分の心をチェンジする第一歩がこの「利他」のあり方なのじゃな。」
ウゼ美「くすくす・・・「愛されることに慣れてない」なんてキザ〜。」
キャラ教授「ではウゼ美君、君はマジオ君から愛されるいると思う瞬間、「なにかうしろめたい」と思うことはないかな?」
ウゼ美「そう言われてみれば、そういう気もするう・・・」
キャラ教授「つまりウゼ美君は「他人が無償で自分に愛を注いでくれるわけがない、と思い込んでいるわけだ。これが「愛されることになれていない」という意味じゃ。」
マジオ「なるほど〜。つまり「利他」とは要するに「情けは人のためならず」ということ?」
ウゼ美「あ!その諺知ってる!!情けをかけると巡り巡って自分に帰ってくるということだよね!」
キャラ教授「マジオ君!さらにウゼ美君もイイ線行っておるぞ!!、そのとおり、「利他」とはつまり世界中の「愛の循環」の中に「自分が参入する」ということなのじゃ。愛の循環に上手くのっかれば物事がすべて上手くゆくようになる。」
マジオ「世界中のお金持ちはみな愛の循環に上手くのっかる術をもっているってこと?」
キャラ教授「正解。世界中のお金持ち・成功者・指導者といった方々はみなこの善いサイクルに乗っておる。この「善いサイクル」を絶対成功法では「好意の返報性」という。この言葉は覚えておいて損はないぞ。マジオ君にウゼ美君。」
ウゼ美「へ〜。。。イマイチぼんやりだけどわたしも「好意の返報性」のサイクルに乗ってみよっと。」
マジオ「俺もお金もちになれるんなら。」
キャラ教授「よしよし・・・それでこそ「絶対成功法」のキャラクターたちじゃ」
ウゼ美「でもキャラ教授、この話って『成功学キャラ教授』の最終講義の内容だよね。いいの?」
キャラ教授「『成功学キャラ教授』は推理小説ではない。ハウツー本じゃ。故にどこから読んでも良いように書かれておる。わしがこの日記に出現したのも『成功学キャラ教授』の素晴らしい内容を一人でも多くの人間に知ってもらいたかったからじゃ。」
マジオ「へー、俺も『成功学キャラ教授』読んでみようかな・・・」
ウゼ美「わたしも!!」
キャラ教授「よしよし・・・さあ、君も人生で成功したかったら書店で『成功学キャラ教授』を手にすることじゃ!そこからすべては始まる!!
ウゼ美「なんか宣伝臭くなってきたカンジ・・・」
マジオ「そう言われるとなんか引くな〜」
キャラ教授「引くも勝手引かざるも勝手、すべては君たちの勝手じゃて!ただ成功したいと思う者は「絶対成功法」の扉を叩け。「求めよ、されば与えられん」じゃ!」
マジオ「ホントかよ〜」
ウゼ美「なんかウゼ〜な・・・」
完。
注>この日記は黒猫館館長が清涼院流水著の『成功学キャラ教授』の「奥義」にあたる部分を自分なりに解釈して問答形式で書き直したものです。作者の清涼院流水氏とは全く関係ありません。悪しからず。
(↑黒猫館館長・作)
こなた「顔がおっきく描かれちゃったよ〜」
かがみ「あなた、普段からデカイ顔してるぢゃない!」
こなた「うう〜、、、新年からそんなに怒らなくても〜」
つかさ「このこなたさん、ふっくらしていてカワイイと思いますけど・・・」
こなた「君だけだ!わたしの顔を褒めてくれるのは!」
かがみ「ふっくらというよりデブ?」
みゆき「チョココロネ食べないほうが良いと思いますけど・・・」
こなた「うわーーー(号泣)ん・・・おかあさーーーン!!」
寒い。
物凄く寒い。
しかも吹雪いている。もし自殺志願者がこの猛吹雪の中で睡眠薬を飲んで寝たら一時間であの世にいけるだろう。
最高気温も最低気温もマイナスだ。
これは人間を拒絶する寒さである。
人間的なものを打ち砕く寒さである。
わたしは打ちひしがれている。この残酷な気候の前に唯、為すすべもなく。
道路はつるつる。
どこもかしこも雪だらけ!
歩くことさえできやしない!!
しかしわたしは生きなくてはならない。
寒さ程度に負けられるか!
お前には聞こえないのか。
春の足音が。
ほら、そこまで来ているよ。
ヒタヒタ。
ヒタヒタ。
生き延びろ。
人間を拒絶する世界あらば、その世界を拒絶せよ!
生きろ。
「サー、ヴァイヴ!!」
「心まで濡らすみぞれのはずはない!」墨岡孝詩集『頌歌考』(詩学社)より引用。
「友人A」という友人がいる。
この友人とはめったに会わないのであるが、過去にIT関係の会社に勤務していたり、ネット上の問題には非常に詳しいのが特長の友人である。
この友人Aはわたしのホームページ「黒猫館」を見たことがないという。ならば、というわけでさっそく黒猫館のURLを教えて彼にご高評を頂くことにした。
数週間後、友人Aから返事が返ってきた。彼のご高評はこうであった。
「黒猫館は扱う範囲が広すぎる、もっと範囲を絞るべきだ。」という主旨であった。
これはどういうことなのか、わたしにも検討がつかなかったので、友人Aの言い分をよく聞いてみた。彼の言い分はこうだ。
「例えばポケモンのファンとドラえもんのファンがいるとする。ポけモンのファンはポケモン専門ファンサイトに行く。ドラえもんのファンはドラえもん専門ファンサイトに行く。しかしポケモンとドラえもんのふたつが共存しているサイトがあったらどうなるか。もちろんポケモンのファンもドラえもんのファンもこなくなる。」というのが彼の言い分であった。だからポケモンならポケモン、ドラえもんならドラえもんと「専門化を計れ」というのが彼の意見であるようだ。
これは一見説得力がある考えである。日本では「専門人」が非常に高く評価される例を待つまでもなく「専門家・専門的なもの」が評価されるのが日本という国だ。ネット上では「ヤフー」の「カテゴリ検索」がこの代表的な例であろう。非常に専門化されたサイトはヤフーで登録される。しかし「分類不能」なサイトは登録されない。これはヤフーでも「専門的なサイト」が非常に重視されている証拠だ。このような考えを仮に「「ヤフーの論理」と呼ぶ。
この「ヤフーの倫理」は納得できる側面もある。例えば昨今流行の「ブログ」について言えば、ただ単に「僕の(私の)ブログ」として、日々あったことを日記風になぞってゆくだけのブログには人が集まりにくいというデータがある。人が集まるブログとはもっと高度に専門化された「アニメならアニメ」、「アニメの中でもガンダム」、「ガンダムの中でもSEED」、「SEEDの中でもルナマリア(キャラクターの名前)」、「ルナマリアの中でもルナマリアの◎◎」という風に恐ろしく専門化されたテーマにそって展開されるブログであるという。こういうデータには少し考えさせられるものがある。
「ヤフーの論理」が現代日本の論理であるのだろう。社会的分業の重要性から考えればヤフーの論理は非常に納得できる。しかし欧米では逆に専門家(スペシャリスト)の反対の万能人(ゼネラリスト)が非常に高く評価される傾向がある。ゼネラリストタイプの人間であると自負しているわたしとしては日本より欧米のほうが評価されるということであろうか。
さて話をサイトの問題に戻す。先ほどの友人Aのポケモンとドラえもんの話にはわたしとしてちょっと異論があったのでここに付け加える。例えばポケモンだけのファンがポケモン&ドラえもん共同ファンサイトに来てドラえもんの素晴らしさに目覚める、という選択肢はないのであろうか。ポケモンだけのファンがドラえもんのコンテンツがあったから「もうこなくなる」というのはあまりに人間把握が偏狭すぎる、というよりそういう意見を述べる人間の器量が狭すぎはしないか。もっと様々な雑多なものが共存する世界で自分には未知の分野を冒険していく、という開拓心もまた必要なのではないか。
「専門バカ」という言葉がある。1970年代の学生運動時代に学生に「専門バカ」と言われた教授が「確かに俺は専門バカだ。しかしおまえらはそれ以前のただのバカじゃないか。」と切り返したという話がある。
しかし「専門バカ」か「ただのバカ」かという二極分類はあまりに皮相的すぎる。わたしたちが目指すものは「大きな守備範囲をもちながら、同時に自分の核(コア)を見失わない」ということなのではないだろうか。
もちろんこのような二重の作業は非常に困難であることは承知の上だ。しかし「自分の専門」にだけ閉じこもる人間より、そのようなあり方のほうが遥かに本来の人間らしいあり方であると思うのであるがいかがであろうか。
「専門家」か「万能人」か。
どちらの生き方がより人間らしいか。
それは激動する21世紀を生きるわたしたちに突きつけられた難問である。
なんとなく疲れたので気張った日記はしばらく書かない。
なにより気張っているのは健康に良くない。
気張らずにアッサリとした日記を書きたい。
アッサリと短めでそれでいてちょいとピリリと味のある日記。
・・・難しいぞ。これは。
アッサリ・薄く書くことも人生では大切なのだ。
キバッテ・濃く書くばかりが能ではない!
というわけで。
本日は帰りにクレープを食べたかったが、体重が心配なのでクレープは止めて、ハンバーガーを食す。
え?
カロリーはどちらも同じだって!?
だから問題なのだよ。
問題なのだ。
太りたくない!!
さてこれで本日のアッサリした日記は終わりだ。
少しはアッサリしたかな?
はっはっは。
(明治時代に作られたフクスケ)
昨日家にフクスケがやってきた。歩いてやってきたら怖いが実は父が骨董品屋で買ってきたもの。
最近の父は妙に骨董づいている。
このフクスケは明治時代のフクスケだそうで大きさも非常に大きい。ケースや座布団も本格的だ。まさに「本物のフクスケ」と言ってよかろう。
顔が怖いと母が言っている。
わたしとしては怖いというより可愛いカンジがするが。
なんだかお金持ちそうな顔でもある。
このフクスケを置いたら本当に我が家にますますお金が舞い込みそうである。
それにしても夜、ケースの中にフクスケがいなかったら怖い。「離れ」あたりをよちよち歩いていそうである。怖い。それは怖い。福福しいだけではなく怖いとは完璧ではないか。
さてフクスケとはいわゆる「神」ではない。実在の人物がモデルである。その人物とは摂津国西成郡安部里の佐太郎だ。なぜ佐太郎がフクスケになったのか、今度、荒俣宏の『帯をとくフクスケ』を読んで調べてみたい。
ようこそ、フクスケ。
福と富を我が家に招いてくれ!!
先日からドストエフスキーの最高傑作と呼ばれている『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳・全5巻・光文社古典新訳文庫)を読み始めている。 現在は2巻の途中まで読んだ。
ここまできてようやく作者の言わんとしていることが掴めてきた気がする。しかし1巻を読んでいる時期は正直苦痛であった。
ドストエフスキー独特の粘着質な文体がネチネチ延々と続くのだ。おおよそ文学やら読書やらに特別の思い入れのある人間ではないと1巻の初めで投げ出しているだろう。
ところでそれ以上にわたしには良くわからないのが、わたしが本書を読む動機だ。青二才の文学青年ならまだしも、わたしのようなイイ歳したオトナが『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる、などと言ったら「そんな本を読む時間があったらビジネス書か資格の本を読め!」という声が聞こえてきそうである。
また少なくても「娯楽」ではない。こんな難解な本を苦労して読むヒマがあったら稲川淳二の怪談ビデオでも観ていたほうがマシに思える。
しかしわたしはなぜか『カラマーゾフの兄弟』を読みたいのである。 なぜか?
読めば精神的に気高くなるから?
それとも人間的に成長する?
あるいは西欧文明というものが理解できる?
今はまだ読了後の「ドストエフスキー効果」について不明だが、これだけ苦労して読んでいるのだから、なんらかの見返りがほしいものだ。
現在、巷ではちょっとした「ドストエフスキー・ブーム」であるそうだ。わたしも学生時代は散々苦労して、岩波文庫・中村白葉訳の『罪と罰』を読んだものだ。
「精神の栄養」。
そのようなものが本当にあるのかどうか知らぬが、『カラマーゾフの兄弟』が精神の栄養になってくれることを切に祈るものである。
本日、新国道のブックオフで友成純一の『妖少女ラルヴァ生贄』(大陸書房ビラミッド文庫)ゲット。100円也。
この本をゲットしたのは15年ぐらいまえに神奈川県の中ノ島のブックセンターいとうで掘り出してから二冊目。一冊目はすでに売却してしまっているのでうれしい買い物であった。
最近のブックオフでこのレヴェルの本が出るのはめずらしい。
友成純一の古書は『陵辱の魔界』(マドンナメイト)と『獣儀式』(同)が復刻されたので値崩れ、古書価をキープしている本は『肉の儀式』(ミリオン出版)、『肉の天使』(同)とこの『妖少女〜』だけになってしまった。
あとの本はどんぐりの背比べ。
内容的なことを言えば『肉の儀式』収録の「猟人日記」が最高の出来。この中篇のグロさには『獣儀式』も及ばないだろう。
期待に反して?なかなか古書価が上がらない怪人・友成の本に未来はあるのだろうか?・・・とあってくれなくては困る。
友成本をほとんどコンプリートで揃えているわたしが困るではないか。
怪人・友成純一にはそろそろ世間をアッ!と言わせるような怪作を書いてもらい、世間の再評価の機運が高まってほしいものだ。
巷で流行っているらしい小説、村上春樹『1Q84』(新潮社)を読み始める。
この小説はまず分量が凄い。上下巻で上巻が554ページ、下巻が501ページ、全1000ページを超える堂々の大作である。
普通の小説だったらこの分量だけで嫌になると思うのだが、どういうわけか村上春樹の小説だけはサクサク読める。
『ねじまき鳥クロニクル』の時もそうであった。
不思議と春樹は「読みやすい」のである。
しかし村上春樹の初期三部作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』などは決して読みやすい小説とはいえなかった。独特の一人称文体で非常にくどい部分が多数あったものだ。
それが『海辺のカフカ』の頃から読みやすくなった。
わたしとしては春樹がノーベル賞を取る、などというウワサ話は小説が読みやすくなったから出てきたのでは?と思っている。
しかし読みやすいから平易な小説、という方程式は通用しない。読みやすいくても何層にも意味の階梯が張り巡らされた『1Q84』はいわゆる「簡単な小説」ではない。むしろ「難解な小説」だ。
反対に読みにくくて実際の意味はほとんどなし、という小説も存在している。こういう中二病的小説が蔓延しているのが現代の書店というわけだ。
わたしも春樹を見習って「読みやすくて、奥深い文章」を書こうと思っている。しかしこういうものを書くには相当の訓練が必要なわけであろう。
さて娯楽と文章修行を兼ねた『1Q84』の読書、今の所はスイスイ進むが今後、嫌になったりせず2巻読了できることを祈るばかりである。
東京出張の夜、井の頭公園に建てられた「紫テント」で、唐十郎原作、金守珍演出・新宿梁山泊第40回公演の『ベンガルの虎』という芝居を観る。
なお『ベンガルの虎』は現在「新潮書き下ろし戯曲全集」に収められている戯曲で唐十郎の芝居では『吸血姫』に次いで長いとされている。その上演時間は三幕で合計2時間50分、堂々の大作である。
ビルマ(現在のミャンマー)で死んだとされていた水島上等兵が実は日本に帰っていた。水島は背中に背負った行李に入った戦友たちの白骨でハンコを作るのを生業としていた。
水島は今日も戦友の骨で作ったハンコで平和な顔をした日本人の顔にハンコを押し続ける。かっての荒ぶる戦友の霊を弔うために。そして現在の平和な日本に復讐するために、水島は「白骨街道」(彼は自分の仕事をこう呼ぶ)を今日もゆく・・・
というような陰湿な怪奇趣味と土俗的な怨念に支配された暗澹たるドラマであるが、わたしはそれほど暗鬱な気分にはならなかった。これは唐十郎の持ち前の庶民的ユーモアで陰湿さが中和されているからであろう。
しかし大量の白骨ハンコが宙を舞い飛び、主役の女の顔に白骨の刻印を捺す水島の姿には鬼気迫るものが感じられる。
そしてクライマックスではパワーシャベルを使ったスペクタクルが展開され観客はみな唖然とした。
かって1960年代、状況劇場が上野忍図ノ池で展開したこの怪奇ドラマが、現在の井の頭公園で忠実に再現されたのかどうか、初演を観ていないわたしには語る術がないが、パワーシャベルに乗って宙を浮く水島と主役の女の背後に無念の戦死を遂げた無数の日本軍兵士の亡霊が浮かんだように見えたのはあながちわたしの眼の錯覚ではないだろう。
さよう、現代の呪術師、唐十郎はまたも死者の怨念を現代に呼び戻したのだ。
彼の芝居は葬式である、と誰かが言った記憶がある。
わたしも今回の芝居でそのことを再度、肌で実感した。
漆黒の闇が支配する2009年の井の頭公園、そこはまぎれもなく死者たちの棲む黄泉へと変貌していた。
先日は角館の秋田犬センターに行って秋田犬を観てきた。
「センター」とは言っても此処にいる秋田犬は二匹のみ。しかしどちらも極上の秋田犬であることは素人目でも確認できた。
おっとりとして気品があり、力強い骨格で堂々と立ち、特にはユーモアで主人を楽しませながら、不審者に対しては猛然と立ち向かう気概を持つ、それが秋田犬だ。
澁澤龍彦が「犬を買うのなら絶対に和犬が良い」と言っていたが、わたしも澁澤の意見に同感である。わたしも、もっさりした感じの洋犬はどうしても好きになれない。
わたしは老後の伴侶として秋田犬を飼おうと思っている。多くの人にとって寂しいものとなりがちな「老後」、それも秋田犬と一緒なら楽しく乗り切ってゆけそうな気がする。
折りしもハリウッド映画「HACHI〜約束の犬」が映画館で最近封切られた。言うまでもないことであるが渋谷のハチ公の出身地は秋田県・大館である。
わたしも近いうちに大館に行ってじっくり秋田犬を観てこようと思っている。犬に対する鑑識眼を鍛えて、改めて老後を共にする秋田犬を選ぶのだ。
さあ!時代は秋田犬。
秋田在住の諸君はもちろん、日本全国の諸君も飼うなら秋田犬だ!すばらしい犬であることはわたしも保証する。
ただし犬にかぎらず動物を飼うことにはそれなりの覚悟がいる。その動物を死ぬまでしっかり面倒見るという覚悟だ。
ここにしっかりと気をつけて、犬を飼う事の喜びを噛み締めてほしい。
(♪手のひら、たいよお、乗せてェ〜・・・ふりふり身体ゆすれば〜光のシャワーをあびいてえ〜今日も一日ピカピカ〜ガンバラン・・・ガンバラン・・・♪)
さあ、さあ!お立会い!!今年も待ちに待ったケーブルテレビフェスティバルにお兄さんは行ってきたぞ。
会場のアルヴェにつくとまず抽選。
わたしはアニマックス提供の「ウォークマン」を指名。番号を書いて箱に入れる。結果は12日に発表とのこと。超・楽しみっ!!
会場ではプリキュアたちが悪の軍団と戦っている。
なぜか現在放送中の「フレッシュプリキュア!」ではなく2年前の「YES!プリキュア5」である。
キュアドリームが超・カワイイ!!わたしはドリームのファンなのだ。うほうほ。
もちろん「はじけるレモンのかほり!」のキュアレモネードもイイ!!ぞ!
行け!戦え!コワイナをぶちのめせ!
会場の女児たちも興奮気味。
わたしももちろんプリキュアを熱烈応援!
そしてプリキュア勝利!!ヤッター!!正義は必ず勝つんだな。うん。
プリキュアが引っ込んだ後、お姉さんが出てきて「はーィ♪よゐこのみんな〜♪プリキュアショーはこれで終わりです!!次はウルトラマンネクサスとの握手会です!!みんなもうちょっと待っててね〜♪」
よゐこたちは大喜び。
しかしわたしはネクサスは好かん。理由は暗いから。メビウスだったら握手しても良いが。
ということでアルヴェを後にして駅前のスタバに入り、アイスコーヒーをちゅうちゅう。
さらに隣のジュンク堂で西村賢太の私小説『痘瘢旅行』を買い求めるとすかさずバスに乗って自宅へカムバック!
ひさびさに楽しめたイベントであった。
来年も来てくれ!プリキュア!
日曜朝と秋田の平和を守ってくれ!!
プリキュアたちよ!!
ぬおー
本日はイオン秋田TOHOシネマのメンズデー。
ならば。
と重い腰をあげて「カイジ〜人生逆転ゲーム〜」を観にいく。
カイジ役の藤原竜也君はなかなかの美青年でス・テ・キ。
この竜也君が黒服にボコボコにされたり、あの手この手でいじめられまくるのだからたまらない。
わがドS魂に火をつけてくれるとは!!コイツッ!!www
さて本映画には原作・アニメに登場しない役回りで女優・天海祐希が出演している。この天海がラストのオチで重要な役割を果たす。
ストーリーは前半の限定ジャンケンはあっけなかったが、中盤の鉄骨渡り、クライマックスのEカードはじっくり描かれ迫力十分。
アニメと甲乙つけがたい出来に仕上がったと言ってよい。
テーマ的なことに言及すれば、
「そして、奴隷は皇帝を討つ!」に集約できるだろう。
この言葉はEカードのルール(皇帝は平民に勝ち、平民は奴隷に勝つ、そして奴隷は皇帝に勝つ」を表現したものである。
つまりカイジのような「もたざる者・社会的弱者」が利根川や会長のような「持てる者・社会的強者」に一矢を報いる、これが「カイジ」という作品の痛快味や感動の要点であり、現代の格差社会に生きる若者たちに強い共感を与えるのであろう。
カイジの原作ファン・アニメファンならば観る価値があると思われる佳作。
いたって正直&率直にじぶんの願望を吐露してしまうならば、わたしは抱き枕がほしいのである。もちろん「抱き枕」は「抱き枕カバー」とセットになっている商品であるから、この2つをセットでほしいことは言うまでもない。
抱き枕カバーにはミニスカメイド服やウサミミや首には鈴などを纏った、超・カワイイ・美少女キャラが印刷されているものが良い。
そういう超・カワイイ・美少女キャラと一緒にキャピキャピしながら寝て、朝はニッコリ笑って「お、おはよう・・・」と抱き枕カバーに声をかけたい。
もちろん抱き枕の効用はそういう擬似ダッチワイフの役割を果たすだけではない。抱き枕に「しがみつく」ことによって安心感を覚え、快眠が約束されるわけだ。わたしのような不眠ぎみの人間には大いなる福音と言ってよいだろう。
さてわたしは抱き枕&抱き枕カバーをヤフオクで落札しようと狙っているが、アキバのアニメショップで買ったほうが安いのであろうか。賢明な読者諸兄よ、誰か知ってる人教えてください。
ちなみにわたしの「嫁」候補は現在次の5人。
1>ヒナギク
2>はやて(なのは)
3>ランカ
4>ちゅるやさん
5>マリナ・イスマイール
東京滞在最後の夜、大学院時代の友人と二人で飲む。
当然、同期で哲学を専攻した仲なので話題は当然「哲学」へ。
友人「まだニーチェにこだわってるか?」
わたし「もちろん。」
友人「いったいニーチェのどこがいいんだ?」
わたし「超人と永劫回帰」
友人「超人って要するに「指導者」とか「知識人」とか精神的なものを象徴して言ってるんだろ?お前さんはニーチェを神秘化しすぎだ。」
わたし「いや、超人には肉体的進化も含まれる。」
友人「ニーチェは梅毒で頭パーになってたからそういうこと言うんだよ。」
わたし「『ツァラトストラ』の時期にはニーチェは正常だった。パーになったのは『この人を見よ』の時期。ちなみに『権力への意志』も信用できない本だな。あの本はニーチェの妹が改竄している。」
友人「じゃあ進化ってどう進化するんだ?」
わたし「例えば空を飛べるようになる。」
友人「お前さんはアニメのみすぎ。」
わたし「そりゃ、そうだ。「リリカルなのは」の映画観て号泣したわたしだからな。」・・・
はっきり言って漫画みたいな話であるが、大学院時代に戻ったような激論が続く・・・
話は流れ流れて、ラグクラフトからアーサー・マッケンへ、そして水木しげるからなぜかゾンビへ・・・
友人「よし!超人がゾンビになってメイドと対決するラノベ書くぞ!!(酔)」
わたし「まあ、頑張ってくれ。(冷静)」
御茶ノ水の夜は更けてゆく・・・
ニーチェもあの世で泣いていることだろう。そして元哲学徒ふたりは友情を確認しあってお茶の水駅で別れた。
嗚呼、それにしてもやっぱり哲学はすばらしい。
さあ!君もレッツ・哲学だ!!
(H・I・N・A! ヒナギク!)
♪本日、キミは何色? キラリはじけて笑顔
どこまで行っても 夕日色
約束なんてないよ まっすぐ進む主義なの
近づく予感は Cheap Knock Knock
(Yeah!)
答えはどこですか?(ここで〜す!)
迷って カラフルな純情 咲き乱れてく
(Everybody 萌え萌え!
)
大好きなんて ありがとう(ありがとう!)
ワタシもずっと好きだよ(好き好き!)
もっとこう(もっと!) もっと明日(そうだ!)
自由な色で広げたい
涙もきっと ありがとう(恋はね〜)
ワタシ咲く 風吹くゴールへ(ふ〜)
飛び込むから
本日満開! オトメ無限大! 見ててね♪
わたし「みんな〜元気かな〜♪」
みんな「元気〜♪」
わたし「今日はなんの日かな〜?」
みんな「ひな祭り〜!!」
わたし「もちろん!!そしてもうひとつ!!」
みんな「いえ〜!!」
わたし「ヒナギクの誕生日〜!!」
みんな「ヒナギクって誰〜?」
わたし「漫画・アニメ「ハヤテのごとく!」のメインヒロイン!!文武両道、才色兼備な女の子だぞ〜!!」
みんな「わ〜い!!ひ・な・ぎ・く!!」
わたし「そこでヒナギクの誕生日に合わせてわたしはヒナギクの抱き枕カバーを買ったわけじゃ!!↑」
みんな「しーん」
わたし「ん・・・どうした?」
みんな「これに綿入れて同衾するの?なんかやらしー・・・」
わたし「これ!亭主と嫁が一緒に寝るのは当然ではないか!!」
みんな「そういわれりゃそーだ。」
わたし「そんなことよりヒナの誕生パーティじゃ!!わしが許す!!今夜は無礼講じゃ!思いっきり騒げ!!」
みんな「わーい♪」
わたし「さあ!ヒナを呼んでみよう!1・2・3・そーれ!!」
わたし・みんな「ヒナ誕生日おめでとう!!ヒナ大好きだよ〜〜〜〜!!」
ヒナギク「わたしもみんな好きだよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
わたし・みんな「いえ〜〜〜〜〜いヒナ・最高!!!」
・・・・というわけでヒナ祭り祭りの夜も更けてゆく。
めでたしめでたし。
<おしまい>
先日は秋田ルミエールで「涼宮ハルヒの消失」を観る。
正直な所、わたしは「涼宮ハルヒの憂鬱」の熱心なファンではない。
なにやら頭のネジの吹っ飛んだ女子高校生・涼宮ハルヒと、今流行の草食系男子のようなキョンが巻き起こすバカバカしいお笑いアニメぐらいの認識しかなかった。
それと「長門は俺の嫁!」に代表される長門有希の魅力というものがわたしにはさっぱりわからないのである。あんななにも話さない女子がいたら不気味で仕様がないのではないか、と思っていた。
しかし今回の劇場版でそれらの疑問は氷解した気がする。
ネタバレ防止のため詳述しないが、
「ハルヒ」の世界観とは日常にひょいと入る込む非日常が主眼になっており、そのギリギリの境界線の上のスリルを楽しむのが、正しい「ハルヒ」の鑑賞の仕方、というわけだ。
また今回の映画でようやく長門有希がなにゆえあれほどの人気を誇るのか少しわかった気がする。
物語の核心に触れるのでここでは言及しないが、今回のアニメで全国のアニメファンが「長門は俺の嫁!」と連呼する理由がようやくわかった。
この作品は近年稀に見る良質なアニメ作品であることをわたしが保証しておこう。ただし「ハルヒ」を知らない人は少なくてもテレビシリーズを観てから映画館に足を運ぶように。
最後に一言。
古泉の短パン姿が可愛かったぞ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!www
大野一雄氏が死んだ。享年103歳。
戦後日本の大きなムーブメントとなった「舞踏(BUTOH)」を土方巽と共に創始したメンバーのひとりだけにご冥福を祈らざるをえない。
合掌。
これで舞踏を継承する人間は麿赤児(大駱駝鑑)と天児牛大(山海塾)ぐらいになってしまった気がする。舞踏の灯火が消えないように今後、有力な新人に出てきてほしいものである。
わたしは21歳の時に白虎社熊野夏季舞踏合宿に参加した。
その時の衝撃は計り知れない。
舞踏の持つ衝迫力がわたしの精神形成に与えた部分は限りなく大きい。
しかしその白虎社も今は無い。
解散の理由は不明である。
しかし若き日に「舞踏」の一端に奇跡的に触れえた者として、これからも舞踏のスピリッツの伝道者でありたいと願う。
以前、わたしとお見合いした相手が結婚したという。
相手は医者。
この女性からわたしは振られている。
であるからなんとなく居心地が良くない。
まるで「コキュ」(寝取られ男)になったような気分だ。
もちろんわたしのほうにも「まだ結婚したくない」という甘えがあったことは認めよう。まだまだ独身貴族で遊んでいたい。
しかし結婚しなければ将来が不安だ。
わたしが病気になったら誰が介護してくれるというのか。
もちろん老後への不安が結婚のすべてだなどという夢のない話はしたくない。しかし「結婚」の問題は誰それの差別なくやがて襲ってくるものなのだ。
「結婚」それは厳しい。はっきり言って結婚生活は苦労の連続であろう。
とすると一生結婚せず、生涯独身ですごすのか。それも苦労が多そうな気がする。
現在20代の諸兄諸氏も「結婚」については良く考えておいたほうが善い。くれぐれも四十代・五十代になってから「結婚」の問題で悩まないためにも。
蝉がみんみん鳴いている。
まだ朝なのに容赦のない日差し。
今年も8月6日がやってきた。
8時15分。サイレンが鳴る。
わたしは立ち上がり黙祷する。
ふだん戦争について考えないわたしも、この瞬間だけは広島の原子爆弾犠牲者の鎮魂のために合掌する。
わたしは書斎へ赴く。
一番大きな観音開きのドアがついた書棚から一冊の本を取り出す。
栗原貞子(1913〜2005年)著『黒い卵』(中国文化研究所・昭和21年8月初版)
この本は10年以上前にガンに侵された瀕死の古書コレクターからほとんど形見のように譲り受けたものだ。(書影は写真参照)
この本を譲り受けてから約一ヵ月後、そのコレクターは自宅で孤独に死んでいった。古書にお金をつぎ込んだので病院に入院できず、家族もいなかった彼はひとり孤独に死んでいったのだ。
『黒い卵』を読了したとき、わたしの背筋に電流が流れたのを覚えている。特にショッキングだったのは「生ましめんかな〜原子爆弾秘話〜」という詩だ。
この詩はきわめて短いのでこの場で引用してみる。
「生ましめんかな〜原子爆弾秘話〜」
「こわれたビルデングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも」
なぜこの短い詩がわたしにとってそれほどショッキングだったのか。
簡単に解析を試みる。
まず「生まれてくる赤ん坊」が生の象徴として死が渦巻く「地下室」への「反抗」として描かれているためだろう。
それは引いては原爆投下という「殺人の原理」に支配された「世界」への異議申し立て、つまり「こんな世界は嫌だ!」という栗原貞子自身の「叫び」の象徴なのだろう。
そしてこの詩においてもっと重要な点が「産婆」の存在である。産婆の命を賭けた努力、つまり「生ましめんかな」という努力、「殺人の原理」に対抗する「出生の原理」の提出、これによってこの詩のテーマが完成する。
しかし「産婆」は「血まみれのまま死んだ。」産婆は原子爆弾によって悪意の処刑を受けたのだ。しかし栗原貞子は頑としてこう言い切って
詩を終了させる。
「生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも 」
たとえ悪意の死刑執行人が何千回・何万回わたしを殺そうと、わたしは何度でもよみがえる。そして未来永劫にわたって、おまえたち死刑執行人に反抗し続けるだろう、こんなすさまじいばかりの決意が読み取れる連である。
さよう、わたしたちは反抗し続けるべきなのだ。
誰かが倒れたら別の誰かが。
その誰かが倒れたらまた別の誰かが。
この世界に死と憎悪をもたらすべての悪意に対して。
総じてこのようなことをわたしは「生ましめんかな」という詩から読み取ってしまう。
来年もまた8月6日はやってくるだろう。その次の年も。さらにその次の年も。そしていくら時代が変遷しようと、ふたたび広島に悪意の死刑執行人が姿を現すことのないようにわたしは深く祈る。
こうして8月6日朝のわたしの短い思索は終わる。
(栗原貞子の詩は現在では、2005年に発行された『栗原貞子全詩篇』(土曜美術社出版販売)によって読むことができる。)
先日、ゲオを除いたら以前から観たいと思っていた「とらドラ!」の1巻・2巻から「新作」のシールが剥がれていた。
わたしは「これはっ!」と思って1・2巻をさっそく借りた。
「そんなに観たけにゃ新作で出た時に観りゃいーじゃん。」
と思う方がいるかもしれないが、ゲオでは
・新作=320円(2泊3日)
・旧作=100円(7泊8日)
なのである。220円の差は大きい。非常に大きい。
さて「とらドラ!」であるが1巻を観た時はそれほど面白いとは思わなかった。なにやら小動物系の珍獣を思わせる手乗りタイガーの挙動・言動が滑稽で面白い程度の感想であった。
しかし2巻で「いっぱつかましたれ・・・」と言う奇妙な掛け声と共に登場した「くしえだ」にわたしは完全にやられてしまった。
明るくけなげでソフトボール部のキャプテンであり、さらに新聞配達に精を出す勤労少女ときている。
こういうキャラにわたしは弱いのだ。こういうキャラに。わたしは一発で「くしえだ」のファンになり、さらに「とらドラ!」全体の熱狂的なファンになったのである。
なんでも「とらドラ!」は「うる星やつら」や「めぞん一刻」などの一連の高橋留美子作品に原作者が影響を受けているらしいので、オールドファンの諸兄にもお勧めできる。
また手乗りタイガーの声を釘宮理恵が担当しているので、「くぎゅう・・・」な方々にもお勧めできるし、なによりキャラが全員イキイキしているのが良い。近年稀に見る良質なアニメと言って良いだろう。
わたしはアニメを観たら原作のラノベを読むつもりである。さらに「くしえだ」の抱き枕カバーまで欲しくなってきた。
いかん!この前、ヒナギクの抱き枕カバー買ったばかりではないか!
われながら自分の多情ぶりに呆れながら「とらドラ!」を観て感動に打ち震えている日々である。
わたしが短歌を書かなくなってからずいぶんと経つ。
なぜ書かないのだ!?と問われれば「意欲が無くなったからだ」と答えるであろう。それほどまでにわたしの短歌熱は冷え切っていた。
思えば同人誌「ポトナム」から2首拾ってもらったのが最後であった。それ以降、短歌に関して目新しい活動はほとんどしていない。
しかし2〜3日前、ブックオフで穂村弘の短歌入門書『短歌という爆弾』(小学館)という本と出合って眼からウロコが落ちた。
わたしはなんという間違った作歌を続けていたのだろうか、と。
穂村弘の本でとりわけ注目させられたのが「仲間をみつける」という章である。「短歌の仲間をみつける・あるいは結社に入る」ことは自作短歌に対する感想・批評・添削指導などを得るために短歌を作る上での必須事項である、との穂村弘の指摘にはガツンと頭を殴られた気がした。
思えばわたしの作歌はいつも孤独であった。いや孤独であったというより批判が怖かったのであるのかも知れない。わたしはひとりで黙黙と短歌を作り、ホッチキスで止めた小冊子を作って短歌にあまり関係の無い知り合いに配るのみであった。これではまともな感想など帰ってくるはずはない。わたしは孤独の中で短歌を見失ったのだ。
一度だけ福島泰樹氏の「月光の会」に福島氏自らから誘われたことがあったが、わたしは恐れをなして逃走した。なんという小心者であることか。短歌以前に基本的な人間性が未熟であったのだ。
しかしわたしはこれから再度短歌にチャレンジしようと思って思っている。今度こそ自分にあった結社に入り、感想なり批判なりを真摯に受け止めて作歌をしようと思っている。
20代の頃は面白いように言葉が頭に浮かんできたものだ。これは今考えると世阿弥の言う「時分の花」であったのだな、と思う。今後「真(まこと)の花」を咲かせるべくわたしは初心に帰って短歌にもう一度チャレンジしようと思っている。
本日、新国道のブックオフで江戸川乱歩推理文庫(60)『うつし世は夢』(講談社)100円で入手。
なんでもこの本は乱歩の遺した未刊随筆のうち戦後に書かれたものを集めたエッセイ集だそうで内容的には貴重なものである。
しかしわたしはあることにカチンと来た。何に来たのか?この本の題名にカチンと来たのである。
「うつし世は夢、夜の夢こそ真実(まこと)」
これは乱歩が晩年に色紙に好んで書いたという文句である。
わたしにはこの文句がどうしても納得ゆかないのだ。
うつし世(現実)が夢だったら、いったいいつ覚める夢なのであろうか?夜の夢が真実であるとすれば昼の現実は「嘘」ということになるのか。そのような考えは今・ここで必死に「現実」を生きている大多数の人々を侮辱するものではないのか。
探偵作家としては一流でも乱歩は哲学者ではない。
故にわたしはこの学説?を支持しない。
むしろわたしやお友だちの諸君のような健康な若者は、
「うつし世は現実、夜の夢こそ夢」をモットーとして果敢に現実に挑んでゆくべきであろう。
こういう現実逃避の文句がクリシェ(決まり文句)となって、若者の間でまことしやかに語られる現代社会というものは気持ちが悪い。
頽廃的な戦前の探偵小説をわたしは嫌いではない。
しかしそういうものは基本的に「夜の読み物」であって昼の世界に持ち込んではならないのだ。
乱歩のこの文句が老荘思想が説く「胡蝶の夢」をパクっていることはわたしも承知している。
しかし「胡蝶の夢」の思想が哲学者・精神分析学者のジャック・ラカンによって非難されていることはあまり知られていないであろう。
「現実」から逃げてはいけない。
さよう、わたしたちが指標とする人物は飄々と「うつし世は夢」などと嘯く老乱歩よりも「逃げちゃダメだ!」と泣きながら叫ぶ碇シンジのほうだ。
わたしはそのように固く信じている。
BS2で紹介されていた「わたしの一冊」であるカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(早川書房)を読了、昨今ではめずらしく激しく心を揺さぶられる読書体験であった。
「ヘールシャム」と呼ばれる謎の寄宿学校、そこで織り成される主人公、キャッシーの青春時代。
キャッシーは仲間のトミーやルースと共に大人へと成長してゆく。
しかし時折はさまれる教師たち「保護官」の不可解な発言、生徒が描いた絵を持ち帰る中年女性「マダム」の謎、その絵が集められるという「展示館」の存在。
物語はミステリ仕立てで淡々と進んでゆく。
そしてへールシャムを卒業したキャッシーが遭遇する驚愕の真実とは?
深い静謐な哀しみを伴った抑制された文体、前半のすべての伏線が見事に解き明かされるクライマックス、そして題名「わたしを離さないで」に込められた真の意味とは?
この本はまごうことなき超一流の純文学であり、21世紀の文学作品として後世に残されるものであろう。そのことはわたしが保証する。
残酷でありながら美しい珠玉のような本書の読書体験はわたしの中でも忘れられない体験となった。ちなみに著者のカズオ・イシグロは英国で最も権威ある文学賞であるブッカー賞受賞作家。
自信を持ってお勧めできる一冊。
わたしは小説を書いてみたいと思っている。
それも官能小説。
もちろんただの官能小説では面白くない。
ホモセクシャル&男性マゾヒズム&スプラッター&SF趣味が入り混じった、それこそ不健全極まる、絶対に親兄弟に見せられないようなまさに「キモすぎる」官能小説が書きたいのである。
もちろんこういうことを書けば沼正三の『家畜人ヤプー』を持ち出したがる御仁が沢山いることをわたしは知っている。
しかしあえて断言するならば、『家畜人ヤプー』は男性マゾヒズム小説の世界で権威化されすぎて、わたしとしては「なにをいまさらヤプーなのだ?」と言いたい気分が大きい。
やれ三島由紀夫に絶賛されたとか、沼正三の正体は某裁判所の某判事だとか、その手の薀蓄話を聞くたびに、そういう「名声」から遠いところで隠花植物のようにひっそりと猛毒を吐き出し続けるのが、真の意味での危ない小説なのではないか?と思うところが大きい。
SM雑誌「ミストレス」紙上で1991年から2001年にわたって約10年間にわたって連載された大河SM小説『隷属と改造の日々』の作者・斉藤優氏も『ヤプー』に対して「その白人崇拝はもう過去のものに等しいのではないか?」と不満の意を表している。
そういう意味でわたしは21世紀という時代にふさわしい男性マゾヒズム小説、それも真の意味で「ヤバイ」小説を書くつもりである。その「ヤバさ」とは例えば映画『ムカデ人間』のような誰もがうすうす考えていながら、決して口に出さないようなことを堂々と白昼に暴露してしまうようなヤバさである。
小説でいえば官能小説ではないが、『玩具修理者』(角川ホラー文庫)でホラー小説界にデヴューした小林泰三が比較的わたしの嗜好に近い。
また初期の友成純一(『獣儀式』(マドンナメイト)など)の感性もわたしの欲するものに近い気がする。
もちろん官能小説とはもともと男性に「抜かせる」ための小説である。その「基本」を忘れてはならない。その「基本」を忘れてしまえば小説は机上の空論となってしまう。それゆえ、そういう「基本」を踏まえて、その上で、アングラでグランギニョールでキモく凄まじく絶望的な厭世観に満ち溢れているような、そういう小説を書きたい。
しかし心配なことを言えば、わたし自身の性欲が最近減退気味なのである。
そこが本当にそういう小説が書けるかどうかの心配の種なのである。
嗚呼!20代の頃の凄まじいばかりの性欲がまだこの身にまだ備わっていれば!
そのように嘆いても歳取ってしまったことは動かせない事実なのであるから、なんとか歳の功で若さをカバーしつつ執筆したいものだ。
さあ、書き始めるか。
日本史上初めて「地獄」を描きだした天台の魔僧・源信こそわたしの師である、と拝みながらに。
◎日曜日=八九寺と富士急ハイランドへ行く。もちろん八九寺をお化け屋敷に連れ込んで号泣させる。
◎月曜日=火憐ちゃんと東京体育館に行く。もちろん体育会系の火憐ちゃんとは格闘プレイに興する。要するに肉体でわかり合う。
◎火曜日=羽川翼と図書館でお勉強。頭が良すぎる羽川の前でわざと白痴のふりをする。そして「こんな簡単なこともわからないの?」と罵られてニヤニヤ。
◎水曜日=千石撫子の家に突撃。撫子と王様ゲームをやって恥ずかしい罰ゲームをやらせる。
◎木曜日=神原駿河と浅草のストリップ劇場に行く。もちろん神原はレズだから女の裸を陶酔のまなざしで見ているのをわたしが横から見てニヤニヤ。
◎金曜日=ガハラさんの家でSMプレイ敢行。ガハラさんにしつこくねちっこく言葉責めされてニヤニヤ。もちろんガハラさんのオヤジが帰ってくる前にトンズら。
◎土曜日=アララギ君とガチムチパンツレスリング。
番外=忍野忍、忍野メメ、月火ちゃん、貝木、西尾維新、その他。
さあ!
さあ!
お立会い。
いよいよアニメ『化物語』の登場キャラ強さランキングを発表するぞ!!
なに?
『化物語』は恋愛アニメであって、バトルアニメぢゃないって?
ノー!ノー!!
ダメよ。ダメダメ。そういうお堅いオツムでは21世紀は渡っていけません。
善き作品は多義的な解釈を読者に許すのです!!
バトルアニメとして『化物語』を観てみるのもまたひとつの「読み方」であるのです。
やあ!やあ!
それではランキングを発表します!!
「忍野忍>>(超えられない壁)>>阿良々木暦≧忍野メメ>>ブラック羽川>「猿の手」装備神原駿河≧文房具装備戦場が原ひたぎ>>(超えられない壁)>>羽川翼>八九寺真宵>千石撫子 」
どうだッ!!これで!!
一位の忍野忍は圧倒的!!これはみなさん納得ですね!!さすが「怪異の王」吸血鬼です!!『傷物語』楽しみですね!!二位はありゃりゃぎ君が意外な健闘を見せました!!三位の忍野メメの強さはまだ未知数ですが相当強いとみて間違いありません!五位の
「猿の手」装備神原駿河はありゃりゃぎ君をぼこったシーンを見れば納得の強さですね!六位のガハラさんの強さもまだ未知数ですが文房具を持ったらまさに鬼に金棒と推測されます。そして!!最弱対決は見事、撫子が勝利を収めました。真宵には「噛み付き攻撃」という強烈
な武器があるので当然ですね!!
いや〜、、、なかなか凄いバトルでありましたです!!
次は『偽物語』でやってみたいですね。
みなさん、それではまた会いましょう!!
(黒猫館&黒猫館館長)