(↑館長のお気に入り映画『ゾンビ』のポスターです。↑)
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採点は黒猫館館長の独断と偏見に基づいています。
(映画の題名をクリックすると詳細な解説が見られます。)
題名 | 監督 | 製作年 | 脚本点 | 演出点 | 総合評価 |
墓地裏の家 | ルチオ・フルチ | 1982 | 75点 | 85点 | 80点 |
必殺4 うらみはらします | 深作欣二 | 1987 | 90点 | 90点 | 90点 |
ガメラ3 邪神覚醒 | 金子修介 | 1999 | 70点 | 75点 | 80点 |
仮面ライダーアギト | 田島竜太 | 2001 | 75点 | 75点 | 85点 |
子猫物語 | 畑正憲 | 1986 | 70点 | 90点 | 80点 |
月光の囁き | 塩田昭彦 | 1999 | 65点 | 60点 | 60点 |
震える舌 | 野島芳太郎 | 1982 | 75点 | 80点 | 75点 |
TOMORROW/明日 | 黒木和雄 | 1988 | 85点 | 90点 | 90点 |
高校大パニック | 石井聡互 | 1978 | 75点 | 75点 | 75点 |
皆月 | 望月六郎 | 2000 | 70点 | 80点 | 80点 |
帝都大戦 | 一瀬隆重 | 1989 | 65点 | 70点 | 70点 |
黒い太陽731 | ムゥ・トンフェイ | 1989 | 50点 | 70点 | 70点 |
スクワーム | ジェフ・リーバーマン | 1976 | 60点 | 70点 | 70点 |
大病人 | 伊丹十三 | 1993 | 70点 | 80点 | 75点 |
DOOR | 高橋伴明 | 1988 | 75点 | 80点 | 80点 |
弟切草 | 下山天 | 2001 | 50点 | 60点 | 55点 |
ムーンエンジェル☆北へ | 山口和彦 | 1996 | 30点 | 70点 | 65点 |
妖獣都市 | 川尻善昭 | 1987 | 85点 | 85点 | 90点 |
子象物語 | 木下亮 | 1986 | 90点 | 80点 | 85点 |
ギニーピッグ 悪魔の実験 | (不明) | 1985 | 45点 | 60点 | 55点 |
新世紀エヴァンゲリオン | 庵野秀明 | 1997 | 25点 | 75点 | 50点 |
女囚さそり けもの部屋 | 伊藤俊也 | 1973 | 60点 | 70点 | 70点 |
ミディアン | クライヴ・バーカー | 1990 | 80点 | 70点 | 80点 |
ステーシー | 友松直之 | 2001 | 80点 | 85点 | 85点 |
ヌードの夜 | 石井隆 | 1992 | 65点 | 90点 | 85点 |
1999年の夏休み | 金子修介 | 1987 | 80点 | 85点 | 90点 |
レディース!! | 中田信一郎 | 1994 | 50点 | 70点 | 65点 |
人造人間ハカイダー | 雨宮慶太 | 1995 | 70点 | 70点 | 70点 |
ラスト・オブ・イングランド | デレク・ジャーマン | 1987 | 85点 | 75点 | 80点 |
戦え!イクサー1 | 平野俊弘 | 1984 | 60点 | 70点 | 65点 |
青い珊瑚礁 | ランドル・クライサー | 1980 | 60点 | 65点 | 60点 |
マスク | チャールズ・ラッセル | 1994 | 80点 | 85点 | 85点 |
人魚伝説 | 池田敏春 | 1884 | 75点 | 85点 | 80点 |
ゆきゆきて神軍 | 原一男 | 1987 | 80点 | 95点 | 90点 |
機動戦士ガンダム三部作 | 富野喜幸 | 1979 | 80点 | 75点 | 75点 |
プリシラ | ステファン・エリオット | 1994 | 80点 | 85点 | 90点 |
1982年ルチオ・フルチ監督作品。
かって忌まわしい惨劇の舞台となった「墓地裏の家」。その「家」に新しい家族が越してきたところから、新たな惨劇の幕が落とされる。
こう書くといかにもありがちなB級ホラーであるが、この作品は非凡である。今からその理由を述べよう。第一にこの作品のメイン・テーマは「子供」である。映画冒頭、「墓地裏の家」の写真をじっと見つめる一家の一人息子(7歳ぐらい)の表情に注目する。彼の目は悲しげで、悲愴感さえ漂わせている。この子供の鬼気せまる表情一つで観客はこれから起こるであろう恐るべき惨劇を予感するのである。
さて中盤、お約束の「ゾンビ」が登場する。しかしこのゾンビの描き方も非凡である。たえず先ほどの子供の視点からゾンビの姿が断片的に写される。ゾンビの全体像がはっきりするのは映画のラストで子供とゾンビが対岐するシーンのみである。
そして映画の所々に唐突に出現する謎の少女、全編をおおう哀切な音楽など見所は多い。「恐怖と悲しみは呪われた姉妹なのだ・・・」というホラー者ならだれでも知っている永遠不滅の真理をフルチもまたしっかりと心得ていたようである。
『サンゲリア』、『地獄の門』のみで「フルチ通」になったつもりの貴方、この作品を御覧なさい。フルチの隠された一面を見ることができます。
1987年深作欣二監督作品
この映画は映画版「必殺」の最高峰であるのみならず、テレビシリーズ・テレビスペシャルを含めた「全必殺」の総決算ともいうべき作品である。脚本・野上龍雄、監督・深作欣二というシリーズ第一作「必殺仕掛人」のゴールデン・コンビの復活には観る前から期待が膨らむ。そして俳優陣も藤田まことらレギュラー陣に加えて、蟹江敬三、真田広之、岸田今日子と豪華メンバーが揃っている。さらにアクション集団「JAC」の参入がこの映画のアクションシーンを彩る。まさに完璧な布陣であろう。これで面白くないわけがない。
ストーリーは主水の勤務する南町奉行所に新しい町奉行が赴任してくるところから始まる。そして老中、将軍まで巻き込んだドロドロした人間関係が執拗に描かれ、そしてそんな「お上」の汚れた思惑によって虫けらのように踏み潰されていく貧乏長屋の人々。そしてラスト、怒りに怒りを耐え抜いた「仕事人」たちがついに立ち上がるというゴールデン・パターンはいつ観ても爽快としかいいようがない。
しかしこの映画を傑作たらしめているのは、ストーリーもさることながら、真田広之演ずる、「南町奉行・左京之助」の存在であろう。時代劇の悪役といったら「いかにも悪役」然としたこわもての親父と相場が決まっているが、この作品はそんな「お約束」を見事に吹き飛ばしてくれた。「左京之助」は女とみまちがうばかりの美形である。これはアニメ「ゲッターロボ」の「ガルーダ」や「機動戦士ガンダム」の「シャア・アズナブル」の系統に連なる「美形悪役」である。現代では「悪」もまた「美しく」なくてはならない。そんな現代的ニーズにピッタリと合致した一作といえるだろう。
ラストの主水VS左京之助の対決がややものたりない気もするが、アクションシーンは見ごたえ十分。正に「娯楽時代劇大作」堂々の復活といえるだろう。
個人的には「弁天の元締め」を演ずる岸田今日子がいい味だしてると思います。なんといっても詩人・岸田衿子(黒猫図書館参照)の妹さんだし。あ、これは蛇足でした。
1999年金子修介監督作品
平成ガメラ3部作の完結篇である本作は前2作にもまして強力なライバル怪獣が現れる。この怪獣は「イリス」というのであるが、「イリス」が宇宙怪獣でもなく異次元怪獣でもなく、「ガメラにうらみを抱く少女の思念の実体化した存在」としたところがポイント。こうゆう変化球的というか、ストレートさを欠くというか、そのような「怪獣」を嫌う向きもあるだろうが、この少女の内面の屈折がキチンを描かれているため設定としては合格点といえようか。(初代ウルトラマンの「ガヴァドン」の回もこういう設定だった気がする。)
さて「イリス」である。この怪獣は従来の着ぐるみではなくCGを駆使して描かれる。強いて言えば東映の『ドゴラ』に近いが、もっと華麗で美しい。まさに新世紀初頭を飾るのにふさわしい怪獣といえるだろう。京都でのガメラVSイリスの最終決戦は迫力十分。ガメラの右腕が切り落とされるシーンはあまりに痛々しい。ラストはイリスを倒したガメラが大量に飛来するギャオスを迎え撃つシーンで唐突に終了するが、これがまた一昔前の任侠映画を彷彿とさせる造りでお涙頂戴的要素十分。
総じて今までの「怪獣映画」とはちょっと違う「大人のための怪獣映画」だと思うが、私は平成ガメラ前2作より楽しめました。評価が分かれる映画だと思います。
2001年田崎竜太監督作品
大人気の平成仮面ライダーシリーズ『仮面ライダークウガ』に続く『仮面ライダーアギト』待望の映画化である。お話は「超能力少年・少女」を隔離している国家施設に敵怪人「アント・ロード」が大挙して押しかけるところから始まる。
大混乱に陥った国家施設にアギト・ギルス・G3−Xの3人の仮面ライダーが応戦するが歯が立たない。しかしそこへ自衛隊から派遣されてきた「G4」が出現、アント・ロードを次々と撃破し始める・・・と解り易く快調な出だしは好感が持てる。
この「G4」という新ライダーが単に強いというだけでなく「死を背負った存在」として描かれるのがポイント。こう書くとえらく抽象的だが、ようするに「G4」は「戦いのためだったら、死んでも構わない」というある種の危険なイデオロギーの持ち主である、ということを製作者側は言いたかったようだ。その結果としてラスト・バトルであるG3−X対G4の場面でG3−X装着員・氷川誠(テレビシリーズ・レギュラーキャラクター)の「僕は生きるために戦う!!」という台詞が重みを得てくるのである。
またアギトは最強変身モードである「シャイニング・フォーム」に変身。アント・ロードのボス、クイーン・アント・ロードと戦うという展開で、娯楽性も十分。総じて子供も大人も楽しめる佳作になっていると言ってよかろう。
1986年畑正憲監督作品
「動物映画」というものは難しい。なぜなら人間の側からのみ「動物」を「観察」した「科学映画」か、あるいは「動物」を擬人化した「ファンタジー映画」になってしまいやすいからだ。しかしこの『子猫物語』は「人間」を一切排除することで、「純粋な動物映画」というものを造りだすことに成功したようだ。なぜなら映画における「神の眼」としての「人間」が一切登場しないことによって、「動物」にストーリーを語らせるという稀有な手法にこの映画は成功しているからだ。
それ故、この映画にストーリーらしき話は無い。主人公の子猫「チャトラン」が大草原を走り回る様をカメラは淡々と追っていくのみである。その大自然に「四季」の装いを色付けることで、ストーリーが無くても観客は、チャトランの行動を「冒険」として捉えることが可能になる。大自然の悠長の営み、そして廻り来る生命の輝き、そのようなものがこの映画の「テーマ」として現れる。誠にこの映画は神技に近いテクニックで創られている。これは動物と普段から寝食を共にしているというムツゴロウ氏だからできた映画であろう。
坂本龍一のファンタジックな音楽、小泉今日子による谷川俊太郎の詩の朗読が彩りを添える。この映画はもっと評価されてしかるべきだ。
1999年塩田明彦監督作品
「青春SM映画」というコピーでスタートした映画である。ここでSMと聞いて即座に鞭や蝋燭やロープを想像される向きもあろうが、残念ながら本映画にはそういったシーンはまったく登場しない。この映画で強調されているのはそういった「肉体的SM」ではなく「精神的SM」であるからだ。
そういったものに疑問を持つ方のために説明しよう。例えば女王様に鞭打たれているM男がいるとする。彼は鞭打ちをそのまま「快感」としてうけとっているのだろうか?答えは「否」である。肉体的痛みはどこまでいっても肉体的痛みでしかないわけであって、それがそのまま快感になるということはありえない。ではなぜM男は鞭打たれることを望むのであろうか?
それは端的に言えば「想像力」の働きによってである。M男は鞭打たれるという肉体的痛みを想像力の力で精神的な痛みに昇華させ、そのうえでそれを「快感」として受け取っているのだ。
つまりあらゆる「SM」は突き詰めれば「精神的なもの」なのである。鞭や蝋燭はそこに行き着くまでの「前戯」といってよかろう。
さて『月光の囁き』である。この映画の主人公はマゾヒストの少年である。彼が想いを寄せる相手はクラスメートの美少女である。少年はこの美少女の「犬」になりたいと口走ったり、美少女に「この変態、死ね!」と言われて滝壷に飛び込んだりする。
結果的に少年は最後まで美少女に拒まれているので、一見「SM」は成立していないように見える。しかし最後まで、拒まれ続けることで、少年は「SMさせてもらえない屈辱」に酔っているようだ。つまり少年は美少女と精神的にSMすることにこっそりと成功したわけで、彼にとっては幸福なストーリーと言えるだろう。
こう書くといかにも暗い映画のようだが、本作はそれほど暗くない。むしろさわやかな印象さえうける。これは少年が屈折しているとはいえ、一途に美少女を追い求める姿に観客が感動するためだろう。佳作。
1982年野村芳太郎監督作品
本邦初、「病気ホラー映画」というジャンルを確立した怪作。だいたい予告篇のコピーからして怪しい。「その日、少女は悪魔と旅に出た」・・・これではほとんどの人が見る前にこの作品をオカルトものホラー映画と思うだろう。しかしこの作品、悪魔も幽霊も登場しない。登場する「恐怖の対象」が「破傷風菌」というのだから驚く。
さてもともとこの映画の原作は三木卓の『震える舌』で、病気にかかった子供とその家族の「絆」を描くという極めて社会的な作品なのである。しかしどこをどう勘違いしたのか映画版『震える舌』はまるっきり「ホラー映画」になってしまっている。
まず主人公の「破傷風にかかった少女」というのが強烈なキャラクターである。この「破傷風」という病気は音や光に反応するらしく、空き缶が棚からカランと落ちるやいなや、少女は「ウグオ〜〜!!」となんとも気味の悪い声で絶叫する。さらにこの映画に登場する医師・看護婦も実にいやらしく描かれている。泣き叫ぶ少女を五人がかりで押さえつける鬼畜な看護婦ども。「呼吸確保」と称してむりやり少女の咽にぐいぐいと管を挿入する冷酷な医師。
実はこの映画、本当の「恐怖の対象」は「破傷風菌」ではなく「患者の苦痛を無視した荒廃した医療体制」にあるのではないか?と今にして思う。
ともわれ筆者は中学生の時、この映画を観て「病気」ほど怖いものはない、と痛感しました。本当に「病気」にだけはなりたくありません。皆さん、身体には気をつけましょう。
1988年黒木和雄監督作品
いまはなき2時間枠ドラマ番組「木曜ゴールデンドラマ」用に制作された作品をそのまま映画にした作品。筆者の見た限りでは映画版でカットされたのはエンディング部分のみであとはテレビ版と変わらない。
さてお話は1945年8月7日の長崎市、つまり原爆投下の前日を舞台としている。いくつかの家族の日常の営みがきわめてほのぼのと描かれている。しかし翌日の8月8日朝の原爆投下の瞬間で唐突にこの映画は終了する。筆者はこの映画を見終わってなんとも後味の悪い感情にとらわれた。この気味の悪さはどこからくるのか?
一昔前、「サザエさん一家の崩壊」の「都市伝説」がはやったことがある。波平が癌を発病し、カツオが非行に走り、サザエは新興宗教にのめり込んでゆくというアレだ。「永遠に変わらないかと思われる日常」そんなものがいかに壊れやすいか?ということがこの都市伝説の「テーマ」であろう。これと同じことがこの『TOMORROW』にも言える。8月7日の描写がほのぼのとしていればいるほど、それと反比例して8月8日の原爆投下以後の状況がいかに酷いかを観客は想像するのである。「いつもと変わらないで『あろう』日常」そんな「正常」にいきなり原爆投下という「異常」がヌッとはいりこんでくる恐ろしさ。これはもう「反戦映画」などというものの域を超えたすべての人間にとっての共通の「恐怖」を描いた「ホラー映画」である。「今日と同じ明日は必ずしもくるとは限らない。」このメッセージは安穏とした日常を生きる現代人への警告であるのだろう。傑作。
1978年沢田幸弘・石井聡互監督作品
石井聡互の自主制作映画グループ「狂映舎」製作の8mm映画を劇場用映画としてリメイクした作品。お話は数学ができないことを教師になじなれた生徒が、ライフルを手にして学校に乱入、教師を射殺し、女生徒一名を人質にして学校に立てこもるというお話。いまではめずらしくもないが1980代の校内暴力「ブーム(?)」以前にこういう映画を作るのは結構勇気のいることだったのでは?と思う。筆者の調査したところこういった「学園バイオレンス」ものは本作以前に日本では製作されていない。その意味で「先駆的作品」といえるだろう。
本作をより引き締めているのは、暴走する生徒やあたふたと翻弄される教師ではなく警察の「特殊機動部隊隊長」である。とにかくこの男、初めから終わりまでクールに行動する。狙撃員が人質を誤射しても顔色ひとつ変えない。言うならば「大人の論理」の代弁者としてこの隊長がクールに行動することで、単なる「若者の怒り爆発」映画などという単純な作品に成り下がることを避け得たのであろう。暴走する生徒、それにあくまで冷静に対処する隊長、とキチンとした映画的構図にのっとって作られているのがわかる。とはいえ右翼の街宣車の乱入や校庭での学校側VSマスコミ陣の大乱闘など石井聡互ならではのアナーキーなセンスも光る。佳作。
2000年望月六郎監督作品
一部で有名なこわもてタコボーズ・花村萬月氏の同名小説を映画化したもの。お話はなんとも陳腐。妻を寝取られたさえない中年男が妻の妹と名乗るチンピラといっしょに、妻と寝取った男を捜しに行くというこれだけのお話。
これだけならなんともつまらない映画と思われそうであるが、実は意外と面白い。それはなぜかというとこの中年男が徹底して「さえない」男であるため観客がこの中年男といっしょに自虐の快感を噛みしめてしまうからであろう。
この中年男、チンピラといっしょにソープ・ランドにいっては緊張しておじけずいてしまう。また夜の公園でフケ専のホモにからまれたりする。要するにこの映画は主人公が徹底して「情けなく」なってゆく映画である。「堕落」だの「無頼」だのといった一昔前の「かっこいい」アウトサイダー像さえ登場しない。ひたすら小心でびくびくしており、情けない主人公がなにもできずにあたふたしている、この姿が妙に滑稽でブラック・ユーモアさえ感じさせる。ラストでは妻と再会するが、その場面でもこの男はなんら「ドラマチック」な行動も言動も行わず、びくびくしている。こういう映画を嫌う人もいるだろうが、筆者はすきです。評価がわかれる佳作。
1989年一瀬隆重監督作品
荒俣宏の『帝都物語』の映画化第二作。前作実相寺昭夫監督の『帝都物語』が全く意味不明な文字通りの「迷作」だったのに対し、本作は極めて明解なストーリーに適度なアクション・シーンを織り交ぜた好編となっている。
お話は超能力を持つ青年、中村と平将門の血をひく女、辰宮雪子の二人が力を合わせて、帝都殲滅を企む「加藤」という怪物に立ち向かう。後半なぜかこの二人が恋人同士になってしまうのが唐突な気もするが、そこはエンターティメントの「お約束」ということで納得しましょう。
「加藤」の帝都殲滅の動機はどうやら「大日本帝国」によって、踏みにじられ殺された人たちの怨霊によるものらしいという描写がある。それでは中村らはいわば「国体の維持」のために加藤と戦っているわけで、ここらへんに脚本段階の突き詰めの甘さを感じる。
とはいえクライマックスの加藤VS中村の超能力合戦は大変な迫力。香港から特撮スタッフを呼んだだけのことはある。また法力僧の役で丹波哲郎が唐突に登場したり、ヒットラーやエバ・グリーンが「怪しいドイツ語」で会話するシーンも登場。とサービスは香港映画並に満点。総じて「娯楽」に徹して観るならこれ以上の作品はなかなかないだろう。佳作。
1989年ムゥ・トンフェイ監督作品
どうでもいいようなお話で恐縮だが、筆者が学生時代、そこの大学の「学生自治会」なる集団がこの『黒い太陽731』の「上映会」を開いたことがある。私はこの手の煽動的集会に全く興味の無い人間なので、この「上映会」には行かなかったわけであるが、『黒い太陽731』というなにやらインパクトたっぷりの題名が頭に残った。そこで後日、私はビデオレンタル店からこの映画を借りて観てみたのである。そして「ハハア〜〜」と納得した。
はっきり言ってしまえば、この映画は「戦争映画」でも、ましてや「反戦映画」でもない。極めて興味本位の観客に向けて製作された「残酷ドキュメント」映画である。要するに『ギニー・ピッグ 悪魔の実験』や『食人族』と同類の映画なのだ。まあ「過激派学生」あたりが好みそうな映画だ・・・と妙に納得した記憶がある。
さて肝心の映画の内容であるが、旧日本軍が収容所で中国人やソ連人を人体実験するさまが執拗に描写される。ある中国人女性は「冷凍実験」と称して氷のなかに両手を入れることを命じられる。そして完全に両手が冷凍されたあと、お湯をかけて解凍する。次の瞬間、実験者がこの女性の腕の肉をむしりとる。
またある中国人男性は「減圧室」なる部屋に放り込まれる。人体というものは外圧と内圧のバランスによって成り立っているので、急激に外圧がさがると、破裂した風船のように内容物が外部に飛び出す。まず目玉がベロリと飛び出してくる。次に肛門から腸がずるずると蛇のように這い出てくる。
とまあ書いても書いてもきりの無い「残酷オンパレード」なのであるが、その「残酷さ」の「発想」に新鮮味がある。アメリカのゴア・ムービーと比較しても遜色のないできであろう。
一部好事家、または気分が悪くなりたい人はぜひ見てください。見たい人だけ見れば良い佳作。
1976年ジェフ・リーバーマン監督作品
筆者はなにが嫌いかというとミミズほど嫌いなものはない。ぬめッとした質感。意味もなく長い体。そしてなにより嫌なのが頭部付近についている「バンソウコウ」を思わせる白い襟巻き状の物体。こうして書いているだけで鳥肌がたってくる。
しかしそれにしても何ゆえミミズがそんなに怖いのか?これはよく考えても解らない問題である。そういえば海野十三の小説に「生きている腸」という短編があった。そういえばミミズと腸は似ている。ミミズが怖いのはもしかしたら、腸がクネクネと動く様を連想するからなのかも知れない。
さて映画『スクワーム』である。米国の田舎でいきなり雷が落ちる。すると地底からミミズの大群がウヨウヨ湧いて来て人間を襲う・・・というあまりにも単純なお話。
しかしこの映画のミミズはタチが悪い。シャワーの蛇口からにょろにょろ出てきたり、女性の飲んでいる牛乳のなかにいつのまにやら忍び込んでいたりする。さらに怖いのはこの映画のミミズはなんと「噛み付く」のである。「気持ち悪い」だけではなく「危険」なのだ。おお、怖い。
クライマックスは10万匹はいると思われる「ミミズ風呂」に人間が頭から飲み込まれる。筆者だったらこんな体験するぐらいだったら死んだほうがマシと思う。本気で。それほど気持ち悪い。
生理的嫌悪感の極地を描いた映画として『スクワーム』は傑作といえよう。気持ち悪いものが好きな人はぜひとも見てください。ただし一ヶ月はうどんがミミズに見えます。
1993年伊丹十三監督作品
ある日突然、「癌」になったらあなたならどうします?私なら泣き喚くか、あるいはすっかり意気消沈して廃人のようになってしまうかのどちらかであろう。
しかしこの映画「大病人」の主人公の中年男も「癌」にかかるのだが、あまりクヨクヨしない。もともと遊び人らしいのだが、病院に入院したらしたらで今度は看護婦に色目を使ったりとふてぶてしい。映画全体のタッチも暗くない。むしろコメディタッチの明るささえ感じる。つまり従来型の闘病物と違ってこの映画の主人公は「癌」であることを楽しんでいるらしいのだ。しかし通常の神経の持ち主が「癌」をこともあろうに「楽しむ」などということができるのであろうか?
その答えは「癌」というものの行き先に待っている「死」という厳然たる事実をどう受け止めるか?で決まってくることだろう。この映画では「死」というものが「完全な終結」として捉えられていない。むしろ「死」もまた新たな「冒険」であるということを製作者側は言いたかったようだ。
確かに「死んだ後どうなるか?」という問題に明確な解答をした人間は一人もいない。怪しげな新興宗教を別とすれば、その問題は個々の人間の「解釈」に委ねられているといってよい。つまり「完全に虚無に帰す」と考えようが、「転生してあらたな人間に生まれ変わる」と考えようと、他人はその人間の死生観に口出しはできないということだ。
この映画の主人公は死ぬ直前に白いワンピースを着た少女の幻影をみる。これは恐らく中年男が来世は「白い少女」に転生すると感じたからであろう。少女に転生して新たな人生の冒険を始める。なんというわくわくとするプロローグであろうか?しかし本当にそうなるとは限らない。だが中年男が「そう思えた」ということが重要なのだ。
総じてこの映画は現代社会の終末期医療のあり方、特に死に行く人間に新たな視座を与えた作品といってよかろう。私も70歳を越えたらこの映画を見直します。佳作。
1988年高橋伴明監督作品。
私は一時期東京のマンションで一人暮らしをしていた時がある。そのころ、なにが私にとって怖かったか?というと深夜のマンションの押し殺したかのような静けさ・・・そして突如その静けさを破るある種の「悪意」だ。
具体的に書こう。私のマンションの部屋の下の階には、ちょっと気の触れたオヤジが住んでいて、時々鉄製の棒状のもので、自分の部屋の天井、つまり私の部屋の床を叩くのだ。その「ボ〜ン」「ボ〜ン」という音の気味の悪いことといったらない。
また深夜の悪戯電話・・・これもまた気味の悪さではこたえられないものがある。深夜3時過ぎ、いきなり腹をゆすって鳴り出す電話・・・そして眠りを中断された怒りを押し殺しながら受話器を取ると、「ガチャリ」と悪意にこもった金属音をたてて電話が切れる。この気持ちの悪さ・・・
本作『DOOR』はそんな大都市の「集団住宅における恐怖」を十二分に描ききった傑作である。本作の主人公は平凡な主婦。夫と子供を送り出せば、あとは夕方までたった一人の生活が続く。ある日、「セールスマン」と名乗る男が、この主婦の部屋に訪問し始めたところから恐怖は始まる。
最初はドアを蹴っ飛ばす等の軽い嫌がらせだったものが序序にエスカレート、後半、この「セールスマン」は子供を人質にとり、主婦の部屋に侵入する。そして始まる主婦対セールスマンの壮絶な流血戦・・・
こう書くといかにも単純な映画のようだが、細かい所まで監督の鋭い視点が光っているので、荒唐無稽には陥っていない。例えば、セールスマンがドアを数十回に渡って蹴っ飛ばすシーンがある。普通、これだけ大きな音をたてれば、近所の住人が皆きずくだろう・・・と思う。しかしこの映画ではマンションの同じ階の住人たちは、自分の部屋のドアから少しだけ顔を出し、なにが起こっているのか?を確認してから、再びドアを閉めてしまうのだ。これは「隣に住んでいる人の顔さえ知らない」という現代の集団住宅事情の戯画であり、また現代人の「自分が安全なら他人のことなどどうなってもいい」という「ことなかれ主義」の象徴であろう。こうして主人公の主婦は、物理的・精神的に孤立してゆくのだ。
後半は電動チェンソウを持ち出してのスプラッター・シーンの連続となるが、ここらがこの映画の賛否が分かれるところであろう。ちなみに私は前半の緻密な恐怖の積み重ねがある故、唐突な印象は受けなかった。
ちなみにラストはなんとも後味の悪い終わり方をする。未見の人はぜひご自分の眼で御覧ください。ゾッとします。
現代人、現代社会、そしてそれらの歪みをホラーという形で見事に描き出した傑作。
2001年下山天監督作品
大人気のスーパーファミコンゲーム『弟切草』待望の映画化。上映前から本邦初「マルチ・エンディング」導入という鳴り物入りで上映された話題作。さてこの「マルチ・エンディング」とはなにか?見る前から期待が膨らむ。
しかしストーリーはあまりに単純。俗な言い回しで言えば「バカップル・イン・お化け屋敷」。つまり米国のスプラッター映画でやり尽くしたパターンをまた見せられるというわけだ。ホラーファンとしてはいささか気が重くなる。
主人公・奈美の過去を掘り下げていく部分から、ようやく映画の筋が見え出す。どうやら奈美には双子がいて、その双子の片割れが悪さをしているらしい・・・とまあまあな展開にようやく安心。ところがついにクライマックス!というところで、なんと「映画のフィルムが巻き戻されて」別のクライマックスが始まる。なんとこれが「マルチ・エンディング」というわけだ。私のようにファミコンやらプレステやらにあまり縁のない人間なら「そんなバカな!」と怒り出してしまうかもしれない。
しかし昨今の家庭用ビデオ・ゲームに慣れた若者には、こういった展開のほうが面白いのかもしれない。なぜならビデオ・ゲームの世界では主人公が死んでも、リセット・ボタン一つでなんどでもゲームが楽しめるからだ。映画にしろゲームにしろどちらも虚構の世界である。そんな「虚構」の「いいかげんさ」をあえて暴こうとしたのがこの映画の本当のテーマであるのかもしれない。
人によって評価が180度割れるであろう問題作。
1996年山口和彦監督作品
私は「ロード・ムービー」なる映画を一本も見たことがない。もともと外国映画が苦手だからしようがないが、ヨーロッパ製の「ロード・ムービー」が話題になるたびにソワソワと気になりだす。
「ロード・ムービー」だから「道の映画」、つまり道を歩く、もしくは道を走る、つまりどこかの地点Aからどこかの地点Bに移動する過程を描いた映画を「ロード・ムービー」を定義したいがいかがであろうか?読者諸君。あながち外れてはいないのではないだろうか?
さて『爆走!ムーンエンジェル☆北へ』である。この映画のポスターにはいわゆる「デコトラ」(デコレーション・トラック)のイラストが描かれていた。公開当初、私は「いよいよ日本製『ロード・ムービー』が見られる!」と歓喜したものだ。
映画が始まるとあの一部で有名なアイドル歌手・工藤静香がトラックを転がしている。しばらくすると工藤のライバルらしき女運転手が現れ、工藤とスピード合戦をする。
基本的にはただこれだけの映画なので、退屈する人もいるだろうが、北海道の雄大な大自然を舞台にデコトラが「爆走」する図はなんとも心地良い。現実の旅行ののんびりした気分をこの映画は追体験させてくれる。
「日常」から逃れたいと思って人は旅をする。おなじく「日常」を忘れるために人は映画を見る。その意味でこの『爆走!ムーンエンジェル☆北へ』は「映画の王道」を行く映画なのかもしれない。
単調な日常に疲れた人はぜひこの映画をみてください。元気がでます。
1987年川尻善昭監督作品
一部で有名なバイオレンス・アクション作家、菊池秀行の同名小説を映画化したもの。
人間界と魔界の均衡を保つ役目を持つ「闇ガード」、滝蓮三郎と魔界側の闇ガードの女、麻紀絵の活躍を描く。ともすれば、とんでもなく陳腐なアニメになってしまいそうな題材だが、そこは『火の鳥 宇宙編』や『レンズマン』でおなじみのベテラン、川尻監督、うまく処理してくれました。
まず驚くのは作画の緻密さである。特に前半、滝を襲った蜘蛛女の歩き方はゾッとするほどリアリティがある。この作画の丁寧さが荒唐無稽とも思われるストーリーを説得力あるものとしているようだ。
またストーリーの伏線も実にうまく張られており見終わった後は爽快感さえ感じる。クライマックスは文字どうりのハッピー・エンドなのだがこれがまた少しも「臭く」なっておらず感動さえ覚える。これは原作より監督の力量だろう。
またセンスのいい音楽、時折挿入される気の効いた台詞など見所は多い。80年代アニメブームの一つの達成ともいえるほど全体の完成度は高い。
全体的にアダルト・タッチで貫かれているので子供より大人に観てもらいたい傑作アニメである。
1986年木下亮監督作品
もはや現代の都市伝説と化した感もある「かわいそうな象のお話」を映画化したもの。戦争中、軍が動物を皆殺しにせよという命令を動物園に出す。しかし飼育係は・・・、というアレである。確か漫画『ドラえもん』にもこの都市伝説をモチーフにした話があったと記憶しているし、こども向け絵本にもよく登場する題材である。しかしそのいずれの話でもラストの解釈が微妙に違っているのが面白い。
さて『子象物語』である。武田鉄也扮する動物飼育係と彼を慕う子供たちが軍の命令に背き、子象を山奥へ隠そうと努力する。結局、子象は軍の将校に発見され、射殺されそうになる。しかしこの映画の非凡な点は、子象があっさり射殺され、お涙頂戴的ラストへと雪崩れこまない点である。
この映画では子象が射殺されるかと思うその瞬間、子供たちが「故郷」という童謡を唄いだすのだ。その結果将校は子象の射殺を断念する。この時いったいなにが起こったのであろうか?そこがこの映画の核心である。
まず言えることは「童謡」というものが「戦争」に勝ったという点である。言い換えれば「文化」が「本能」を凌駕した奇跡の一瞬といえるだろう。「戦争」という殺し合いは人間のDNAに埋め込まれたいわば運命的悲劇である。その悲劇に人間の作り出した「文化」が勝利したのだ。これは驚くべき展開としかいいようがない。この瞬間、「永久平和」という「幻想」が「本当に到来するかもしれない」という希望を、この映画の観客は抱くわけだ。この映画が齎す稀有な感動はこの「希望」を観客が一瞬ではあるが垣間見るところから生じている。
そういう視点から見ればこの映画は文字どうり「運命」と「意志」の相克のドラマであり、ギリシャ悲劇的なカタルシスさえ得られる。
数多く創られた「動物映画」のなかで最も優れた一本とわたしはいいきりたい。戦争、そして人間というものについて考えてみたい青少年の諸君に特に見ていただきたい映画である。傑作。
1985年作品監督不明
「本物のスナッフ・ビデオではないか?」という噂が広まった「ギニーピッグ・シリーズ」の第一作。この第一作が人気を呼び結局4本製作されることとなったようである。といっても筆者は後年この作品に関わったスタッフのインタビュー記事を某雑誌で読んでいる。それによるとこのビデオ作品は「作り物」。要するに『食人族』と同じオチがついたというわけだ。
さて内容であるがどことも知れぬ廃屋で一人の少女が数人の男たちにリンチされている。最初は殴る・蹴るといったオーソドックスな(?)リンチだが後半は少女にウイスキーを飲ませて椅子に縛り付けてグルグル回して嘔吐させたり、熱湯をかけておおやけどをさせたうえそのやけど部分に蛆虫を這わせたりする。
最後はいかにも痛そうな眼球針貫通をやって終わり、と最近の「鬼畜系ビデオ」に比べれば意外とおとなしい出来。それでも筆者はこのビデオ作品に従来にはないある視点を発見した。それではその「ある視点」とはなにか?
さて従来系の女拷問映画には必ずといっていいほど「エロティック」なシーンが入る。それはたとえば「海老縛り」にした女を竹の棒の打ちのめしたり、磔にされた女の胸がはだけていたり、といった具合だ。しかし本作品『悪魔の実験』では女は常時着衣のままでエロティクの「エ」の字もでてこないようだ。この点に筆者は製作者がわのストイックな姿勢を見出し、そこを評価したいと思うのである。
従来型の「女拷問映画」がともすれば「SM」などというもはや様式化された性倒錯のバリエーションに帰結するのに対し、この『悪魔の実験』はひたすらに「女」をエロティックな対象とすることを拒み、「ものとしての人体を破壊する」、という姿勢で執拗に女を攻撃している。ここに男がもっている女に対する根源的な憎しみを見る思いがして、そこに筆者は恐ろしいものを感じた。
人間の持っている暗黒面を見つめてみたいという文学肌のひとはぜひみてください。それ以外のひとは気分が悪くなるだけだから見ないほうが無難。
最後にこのビデオ作品は例のM事件で一斉にレンタル店から撤去されたが、現在でも闇ルートでは売買されているようだ。どうしても見たい人はそういったデンジャラスな世界に足を踏み込んでみるのも一興だろう。
1997年庵野秀明監督作品
「社会現象」とまで言われたテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の25・26話を作り直して「完結編」と銘打って鳴り物入りで公開されたアニメ映画。
といってもストーリーがさっぱりわからない。突然、空から「量産型エヴァンゲリオン」が多数降ってくる。そして人間同士の戦争が始まり、唐突にテレビシリーズで廃人となったはずのキャラ「アスカ・ラングレー」が復活する。そして後半、あの人気キャラ「綾波レイ」が巨大化、そして人類は滅亡、シンジとアスカは新世紀の「アダムとイヴ」になる。・・・とまあストーリーなど全く理解不能に等しい。それでもわたしはこの映画になにか秘められた「悪意」のようなものを感じた。いったいそれはなにか?
さて唐突であるが新約聖書に「ヨハネの黙示録」という最終章がある。「黙示録」とは「キリスト教徒だけに暗示される暗号」という程度の意味である。「暗号」であるのだから一般人は読んでもさっぱり意味がわからない。
さて『新世紀エヴァンゲリオン』にもわたしは現代の少年少女たちのみが共有する「黙示録的暗号」のニュアンスを強く感じるのである。この「エヴァ」と呼ばれるアニメに強く共感したという少年少女たちは現代の日本社会をこのような奇怪な地獄絵図として見ているのではあるまいか?ラストのアスカのつぶやき「キモチワルイ」は『新世紀エヴァンゲリオン』世界の「気持ち悪さ」のみならず、現実の日本社会の「気持ち悪さ」に対する若者たちの代弁であるのだろう。
それほどこの全く意味不明でグロテスクなアニメーションを見れば見るほど、「このように若者たちの眼には現代社会が写っているのだ」という慄然たる事実を思い知らされる感じがしていい気分がしない。まさしく「キモチワルイ」のだ。
教育関係者、心理学方面の人たちは絶対に観るべき作品であろう。一般のひとでも青年心理に興味のある人は観てください。決して娯楽作品ではないし芸術性が高いわけでもないが問題作ではある。一見の価値あり。
1973年伊藤俊也監督
あの女闘映画史上あまりにも有名な『女囚701号さそり』シリーズの第三作。シリーズ映画というものはシリーズが進むにつれてテンションが落ちてくるものだが、この『けもの部屋』は第一作を凌駕するキナ臭いパワーに溢れた怪作である。
まず主人公「松島ナミ」が映画の冒頭いきなり追っ手の刑事の片腕を切断する。この場面でタイトルバック。これだけでこの映画の得体の知れないいかがわしさが知れるというものだ。
さてナミは中盤からヤクザの情婦「カツ」という女に捕らえられリンチにかけられる。この「カツ」を演じるのがあの状況劇場のヒロイン・李礼仙というところがポイント。この「カツ」という極悪女のあまりの非道ぶりについにナミは怒って・・・クライマックス。というゴールデンパターンも健在。
そうじていかがわしさのプンプンするキワモノ映画だが、1970年代初頭の風俗が実に活き活きと描写されておりこれを観るだけで観る価値のある映画といえよう。「アングラ」という言葉がまだ生きていた時代の貴重なサンプルとも言える。状況劇場の芝居が昔好きだったひとはぜひ観てください。いかがわしくも野卑なパワーに満ち溢れていた「あの時代」の空気を吸うことができます。佳作。
1990年クライヴ・バーカー監督作品
あの怪作スプラッター映画『ヘル・レイザー』で一世を風靡した英国怪奇作家・クライブ・バーカーが満を期して放つ衝撃のファンタジー巨編。といってもやはりバーガーの原作作品であるからホラー色が強い作品となっている。無理をして言うなら「ダーク・ファンタジー」というべきか?
さてお話は怪物の街、「ミディアン」で怪物となってしまった青年と、この青年を執念深く付けねらう謎の医師の攻防が描かれる。本来ならば人間を脅かすはずの怪物がこの映画では「迫害される存在」として描かれるのがポイント。謎の医師の背後にキリスト教的ニュアンスを匂わせるものがあるから、歴史的事実としての東方的異教対キリスト教の現代的変奏として描かれたのがこの映画であるのかもしれない。
尚、怪物は100種類以上登場、怪物ファンのひとは必見の映画であることも付けくわえておこう。
本書の原題は『死都伝説』(集英社文庫)。この文庫の解説によれば「続編」が書かれる予定だったというが、いまだ続編の情報はない。誰か知っている人がいたら教えてください。
限りなくホラーに近いファンタジーとしてホラー嫌いの人も楽しめる佳作。
2001年友松直之監督作品
あの天才ロックミュージシャン・大槻ケンヂの同名小説を映画化したもの。大槻ケンヂの小説は『グミ・チョコレート・パイン』などの「のほほん系」と『くるぐる使い』などの少女向けホラー系があるがこれは後者。いかにも大槻ケンヂらしい屈折した青年心理をあからさまに描写した作品となっている。
さてこの映画の内容は15歳から17歳までの少女が突然死亡し始めゾンビとなって甦リ始める。事態を憂慮した当局はこの少女ゾンビを「再殺」するため「ロメロ再殺部隊」を結成、少女ゾンビの殲滅作戦に乗り出すというお話。
これだけなら唯のゾンビ映画だが、少女ゾンビの目的が「愛する人に再殺されたい」というところがポイント。そのため主人公の青年がゾンビ化したヒロインを再殺するクライマックスは涙を誘う。
尚、この映画ではバンド「特撮」によるピアノ曲が多用され素晴らしい効果を上げている他、演出面のクオリティも高い。怪しげな博士役の筒井康隆が少女ゾンビに食い殺される部分はゾッとするほど迫力がある。
総じてアメリカ製ゾンビ映画のパロデイを超えて思春期の少女たちの微妙な心理をうまく描き切った映画として傑作といってよいだろう。一見の価値あり。
1992年石井隆監督作品
あのカルト的人気を誇る官能劇画家・石井隆が脚本・演出を担当した意欲作。
といってもストーリーはあまりに陳腐。ヤクザの情婦がそのヤクザを殺してしまい、「代行屋」と称する胡散臭い男と逃避行に走るというもの。まあ40年前の日活映画によくありそうな話なのである。
それでは本作は凡作なのか?と言うと全くそんなことはない。駆け出しの頃の竹中直人がぶっつけ本番的な大胆な演技を見せているのは好感が持てるが、それ以上に本作を名作たらしめているのはヤクザの情婦を演じた余貴美子だ。余はもともと小劇場系の舞台女優であり、彼女がそこにいるだけでアングラ演劇的なグルーブ感がたちこめる。このような存在感を持つ女優は現在では余貴美子と「劇団第七病棟」の緑魔子程度だろう。
映画では一般的に「一に脚本、二に脚本、三四がなくて五に脚本」などと言われるが必ずしもこの格言は普遍的なものではないらしい。その証拠に本作では陳腐な脚本ながら、竹中直人と余貴美子の二大名演技を得ることで十分傑作になり上げっている。やはり俳優の力は映画にとって馬鹿にできないもののようだ。
尚、本作では石井隆お得意の雨、ネオンサイン、場末のアパートといった小道具の使い方も光っている。総じて小品ながらスタッフ・キャストの努力で佳作となりえた幸福な映画といえよう。
1987年金子修介監督作品
あのカリスマ的少女漫画家・萩尾望都の漫画作品『トーマの心臓』を映画化したもの。筆者は『トーマの心臓』は未読だが、映画化にあたってかなり大幅な脚色が行われたようである。ちなみに本作品の脚本はあの「岸田事務所+楽天団」でお馴染の前衛劇作家・岸田理性。
さてお話はどこにあるともしれぬ寄宿学校の夏休みで、学校に残った四人の少年の極めてホモ・セクシャルな関係が描かれる。といってもこの少年というのが実は少女が演じているので、肉体的な生臭さは完全に消去されている。
さらに寄宿学校の外にある「核シェルター」や近未来的デザインのテレビ・その他小道具などがふんだんに登場しこの映画からあらゆる『現実感』は消去されてゆく。だからこそファンタジーなのだ、という人もいるだろうが筆者はそこになにか物足りなさを感じた。それは一体なにか?
さてこの映画のパンフレットを読むと、実はこの世界では「核戦争」が起こっているらしいのである。準備稿では映画のラストに核爆弾が投下されて終劇になる予定だったらしいが「ファンタジーにふさわしくない」という理由でこの「核戦争」のくだりは全部カットされたのだという。つまり学校の外にある「核シェルター」は準備稿の名残なのである。
しかし筆者としてはそのような「残酷な」ラストによって帰ってこの寄宿学校の四人の少年のドラマはさらに美しく輝いたのではないか?と思う。少年だけに許された楽園の時間、これを「青春」と呼ぶ者もいよう。そのようなものは喪った者の喪失の眼差しで観てこそ美しく光輝くのではないか?・・・それゆえに筆者はこの「幻の準備稿」が惜しまれてならないのである。
さてそんな事情を差し引いても本作は十分に美しいファンタジーに仕上がっている。特筆すべきはあの天才ピアニスト・中村由利子がBGMを担当していることだろう。彼女の参入がなくては本作はこれほどまでの完成度を示しえなかったであろう。
総じてストーリーのある環境ビデオとして本作を観るならほぼ満点に近い出来。少年少女の諸君にもぜひお薦めしたい一本である。
1994年中田信一郎監督作品
さてあまりにも唐突な問いで恐縮なのだがなぜ人は「女同士の戦い」というものに魅了されるのであろうか?古くは「女相撲」から昨今の「女子プロレス」まで女同士が戦えば、それだけで十分「見世物」としての価値が出現する。筆者が考えるにその答えは、恐らく普段おとなしい「女」という生き物が生物としての闘争本能を剥き出しにして荒れ狂う様に人は「裸の人間」、換言すれば偽善やまやかしではない根本的な人間のありようをみるからであるまいか?。
さて映画『レディース!!』である。この「レディース」とは女の暴走族のこと。千葉を牛耳るレディース「房狂連合」が対立する組織「悪魔女族(ゾンビ)」やその上部組織「血護苦」との血みどろの抗争を繰り広げる。この房狂連合の総長を演じるのがあの元おニャン子クラブの渡辺美奈子という所がポイント。すなわちカワイイ顔してやることは凄いというわけだ。極めつけはこの渡辺扮する総長が「女のケジメ」をつけるため「乳首切り」なる儀式(?)をやるところでだろう。ナイフで乳首を刎ねるやいなや水鉄砲のように血が噴出して敵の女レディースの顔にかかるというのだからなんとも見世物感覚抜群のトンでもなさである。このシーンだけでこの映画がR指定になったこともうなずける。
映画の最後は「血護苦」の連中のフクロにされた房狂連合が悲愴感たっぷりの突撃シーンをみせて終わりという他愛無いものである。総じて怒声とケンカばかりの映画のようだが筆者はこのレディースたちの無鉄砲な生き様に現代の青少年たちが捨ててしまったある「愚直さ」のようなものを見出し、そこを評価したいと思うのである。なにかと賢しげで大人ぶった昨今の中高生より筆者はこのレディースのバカな女たちに共感を覚える。それほど筆者を魅了したのはやはりこのレディースたちが曲がった根性とはいえ「生きることへの真剣さ」を垣間見せてくれるからだろう。
現代青少年裏面史としての女暴走族の姿、そのようなものが存在しているということを確認するためにこの映画を観ることも一興だろう。決して佳作とはいえないが一見の価値あり。
1995年雨宮慶太監督作品
さて、いきなりなにを唐突な!と驚かれてしまうかも知れないが、わたしは最近、いわゆる子供向け特撮ヒーロー番組を観るたびに考えさせられてしまう問題がある。
その問題とは「正義とはなにか?」という問題である。
人物Aが正義と思ってしたことが人物Bには必ずしも正義ではない、これは最近の「正義」の問題を語る者がしばしば引き合いに出す例えである。それは確かにそうであろう。例えばわたしが特撮番組を支持するのは、特撮番組が「正義」の理念に貫かれていると確信しているからである。しかし特撮番組が嫌いな人間にはこのわたしの理念は「正義ではない」のである。
すると結論は「正義などこの世に存在しない」ということになるのであろうか?しかしわたしはここでちょっと待てを言いたい。正義が存在しなければその対立概念としての悪もまた存在しない。この世に正義も悪もなければ世界は混沌であるだけであろう。そこで誤解を恐れずに言えば人はそれぞれの「正義」を背負って生きてゆくしかしかないのではないか?『仮面ライダー555』の主人公・乾巧の名台詞「戦うことが罪なら俺が背負ってやる!!」のごとく正義を掲げることは人間にとっての「原罪」であり、またそうしなければ生きていかれない「悲劇」であるのかも知れない。
さて前置きが長くなったが『人造人間ハカイダー』である。「ハカイダー」とは往年の人気特撮番組『人造人間キカイダー』の名悪役である。この人気悪役を主人公にして映画を一本撮ってみようとして生まれたのがこの作品なのであろう。 さて近未来とも地球外惑星とも思われる荒涼たる地に「完全管理都市ジーザスタウン」の強固な城塞が聳え立っている。この「ジーザスタウン」では「ミカエル」と呼ばれる絶対権力者が「法」と「秩序」と「正義」を掲げて人民に圧政をしいている。このジーザスタウンに一人のロボット「ハカイダー」が侵入してくるところから物語は始まる。
ハカイダーはその圧倒的な強さでミカエルの部下を次々と撃破してゆく。そしてミカエルと対屹したハカイダーはミカエルに向かってこう言い放つのだ。「貴様が正義なら俺は悪だ!!」。そしてハカイダーはミカエルを破壊してジーザスタウンを去ってゆく。このハカイダーの台詞がなんとも興味深い。これは往年の特撮ヒーロー番組へのアンチテーゼともとれるし、「正義」というものの欺瞞性に対する風刺であるのかもしれない。しかしここでわたしはまた考えてしまう。ミカエルなき後のジーザスタウンはどうなるのか?「法」と「秩序」が破壊されたならばジーザスタウンに訪れるのは混乱だけではないのか?あるいはそれは「自由の到来」として歓迎されるべきものなのか?・・・
この映画は色々な意味で寓意的・抽象的であり、観る者は今までのアニメ・特撮番組の「常識」では通用しない映画であることを肝に命ずることが必要であろう。思索にふけってみたい方、あるいはいままでの特撮番組のステレオタイプさに飽き飽きしてしまった方にお薦めする映画である。凝り固まっている頭脳の体操になることは確かだ。一見の価値あり。
1987年デレク・ジャーマン監督作品
さて、唐突に宣言してしまうがわたしは「わからない映画」は苦手である。もちろんここで「わからない」ということの意味は鑑賞者としてのわたしのオツムが足りないという意味ではない。映画全体を俯瞰して「論理的整合性」が感じられない、という意味だ。
さてこの『ラスト・オブ・イングランド』も一見して「わからない」映画である。いきなりテロリストが登場したり、乞食のような男が死体を弄んでいたり、なぜか人々が船に乗ってどこかに行ってしまう。そして最後の女性らしき人物の妙な踊り。
これだけではなんのことかさっぱりわからない。しかしこの映画の題名『ラスト・オブ・イングランド』(英国の最期)を反芻してみると、奇妙な言い方だが「わからないなりにわかってくる」。
要するに監督のデレク・ジャーマンは現代の腐敗・堕落した英国に対する怒り・絶望感を「映像」として表現したかったのだということができる。もちろん、そのような主題でキチンとしたストーリーに基づいた映画を創ることも可能だろう。しかしデレク・ジャーマンは「ストーリー」という論理性よりよりダイレクトに観客に主題を訴える「映像詩」を創りたかったのであろう。「映像詩」とはこれまたなんとも胡散臭い言葉であるが意味は簡単である。本来繋がらないはずの映像を繋げる作業を行えば簡単に「映像詩」は完成する。もちろんそれをやるにはよほど鋭い感性が必要であるだろう。
そのように観てみるとこの映画に込められたデレク・ジャーマンの英国に対する絶望感がひしひしと伝わってきて痛痛しいばかりだ。最後に登場する一見みょうちくりんと思われた女性の踊りも英国人のダンス・マカーブル(死の舞踏)を象徴するものであることがわかってくる。デレク・ジャーマンの「映像詩」を作るという極めて困難な作業はわたしには一応成功しているように思われる。
ヨーロッパ系アートフィルムに苦手意識を持っている方はぜひ今までの先入観を取り去って本映画を観てほしい、とわたしは思う。もしかしたら新しい世界があなたの眼の前に広がるかもしれません。佳作。
1984年平野俊弘監督作品
『ドリームハンター麗夢』や『幻夢戦記レダ』等と共にOVA創生期を彩った貴重なアニメ作品の代表的一本が本作品である。ストーリーは宇宙人の美少女「イクサー1」が地球侵略をもくろむ「クトゥルフ」という悪の組織と戦うという単純なものであるが、細かい部分に監督の「凝り」が出ていてそちらのほうで楽しめる。例えば主人公の美少女を襲う「ぬるぬるぎゅちゃぐちゃ」怪物はこの当時流行していた吾妻ひでおの漫画の影響があるのだろうし、後半でてくる巨大ロボットはもろにスーパー戦隊シリーズのパクリである。また両性具有の敵幹部、サー・バイオレットの役で今はなき塩沢兼人が声をあてているのも見所だろう。総じてごった煮的で統一感に欠けるもののスタッフの熱気は伝わってくる作品である。1980年代の古き良きアニメ作品を愛する人にはぜひもう一度観ていただきたい作品である。また最近の若い人も本作品を観れば昨今のアニメとは全く違った映像体験ができるであろう。佳作。
1980年ランドル・クライサー監督作品
誰もがなんとなく気になっているのに、なぜか誰も語らない映画というものがある。本作品もそういう種類の映画である。なぜ誰もこの映画について語りたがらないのか?これはなかなか難しい質問である。その回答を出すまえにこの映画のストーリーをおおざっぱに反芻してみる。航海中の豪華客船がいきなり沈没、幼い男女二人だけが生き延びて無人島に辿りつく。そして月日は流れ成長した二人は「性」というものに目覚めてゆく。
このように書けば実に単純でたわいもないストーリーである。しかしなぜかこの映画の知名度は非常に高いし、昨今では『ブルー・ラグーン』という続編まで創られた。なぜか?
まずこの映画のテーマが二重構造になっていることに注意していただきたい。表面的には「思春期の性」をさわやかに描いた映画ということになっている。しかし一皮めくると身も蓋もない言い方だが「処女と童貞のセックスの話」なのである。このどちらかがこの映画の「本当のテーマ」と断定することはできない。強いていえば「どちらも本当のテーマ」なのだ。それ故、観客は「処女と童貞のセックスの話」を「さわやかな思春期の性の話」として見せられることになる。そこに発生するのが「うしろめたさ」である。正真正銘のポルノ映画であるのなら観客は開き直って「下世話な映画」と潔く切り捨てることができる。しかし本作品はそのように切り捨てることができない。そうしてじわじわとこの映画は誰もが口を閉ざし黙々とひそかに鑑賞される一種の「カルト・ムーヴィー」になってゆく。
この映画を子供の性教育に使用することはできないだろうし、過激なポルノとして断罪することもできない。中途半端でありながら、それ故人々の記憶に残る不思議な映画、それが本作品である。一見の価値あり。
1994年チャールズ・ラッセル監督作品
キートン、マルクス兄弟など、ナンセンス・ギャグ映画が大量に製作され、人々に楽しまれた時代がある。本邦でも映画ではないが、志村けんと田代まさしによる寸劇『バカ殿様』がゴールデン・タイムに放映され視聴者を楽しませてくれた。しかし現在ではナンセンス・ギャグというジャンル自体が衰退している。『バカ殿様』も田代まさしの不祥事による降板で以前のような破天荒なパワーを失った。そしてその代わりに台頭してきたのが「クスッ」と笑う程度の「上品な」コメディである。好みの問題であるが筆者は口を押さえて「クスッ」と笑うより大声でげらげら笑いたいものだと思っている。
さてそんな時代に突如出現した「大声でげらげら笑える映画」が本作品である。主演のジム・キャリーが謎のマスクを被ると心機一転して超人化、悪党どもをばっさばっさとなぎ倒すのだから痛快極まりない。しかも最新のSFX技術の効果でジム・キャリーの目玉がびよーんと飛び出したり、顎が外れて中から大きな舌がベロンと飛び出したりする。このような「笑い」を馬鹿馬鹿しいと一蹴することは可能であろうが、そのように言う方も本作品を一度御覧になっていただきたい。しぶい顔がおもわずニヤリとほころぶだろう。
最後にテーマ的なことを付け加えるならば、マスク=仮面を被ると超人的なパワーを発揮するという話は古くは『月光仮面』から最近の『平成仮面ライダー』に至るまで数えきれない程に存在するパターンである。古代より「仮面」は呪術的シンボルとして重要な儀式や祭典の時に使用された。「仮面」というものは現在でも「コスプレ」や漫才の「被り物」に姿を変えて着々と生き延びている。そのような「仮面」の持つ神秘について、本作品を観ながら思索してみるのも一興だろう。佳作。
1984年池田敏春監督作品
本作品は『女囚さそり』『聖獣学園』など「女性復讐映画」が大流行した1970年代の一連の流れをくむ作品である。しかし70年代の作品が「エログロ」「猟奇」的なニュアンスが濃厚であったのに対し、本作品は猟奇趣味よりもスーパーナチュラル&ファンタジックな意匠を施された一首独特な「ファンタジー映画」になっているといってよかろう。
原発開発をめぐるどろどろした人間関係、そして虫けらのように殺されるひとりの漁夫、そして復讐に立ち上がるその妻(白都真理)、と水戸黄門にも似た黄金パターンでストーリーが展開するが、本作品はストーリーの整合性より一瞬の場面の美しさにみるべきものがある。復讐の場面も陰惨にはならずどこかファンタジックな趣がある。
クライマックスで女主人公は原発開発の悪党どもの集団に魚獲り用の槍を持って特攻する。このような通常ならなんとも「荒唐無稽」なシーンが本作品においては不思議に美しいシーンに見えてくる。ここら辺の映像処理の上手さは監督の池田敏春の力量であろう。
ラストは二転三転するが、ここらは書くとネタバレになるので書きません。駆けつけた機動隊の集団を白都真理がひとりでどうやって蹴散らすのかは見てのお楽しみ、ということにしておく。
総じて「女性復讐映画」ではかなりレベルの高い作品である。『さそり』ファンもぜひ観てみましょう。『さそり』とはまた違った感興が味あえます。限りなく傑作に近い佳作。
1987年原一男監督作品
本作品は「奥崎謙三」という極めて特殊な人物を扱った「ドキュメンタリー映画」である。奥崎謙三は「天皇ポルノびら」をデパートの屋上から撒いたり、昭和天皇に向かってパチンコ玉を発射した罪で前科がある。また自宅を「サン書店」と称して『宇宙人の聖書!?』なる不可思議な書物を出版したりと一種独特な信念に基づいて思考・行動しているらしい人物である。
さて本作品はそんな奥崎謙三が「神軍平等兵」と名乗り、ベタベタと品のないビラを貼り付けたワゴンに乗って日本国中を行脚し、かっての自分の旧陸軍での上官と出会い、彼らの罪を暴いてゆくというのが大まかな筋立てである。
しかし本作品での奥崎謙三はもう寝たきりのかっての上官に殴りかかったり、「神罰がくだる」などのオカルト的発言で相手を脅かしたりとどうみてもまともではない。かっての上官の罪を暴いて、「戦争の悲惨さ」を観客にアピールしたければ公平なディスカッションを行うべきだろう。奥崎謙三の行動はいかなる理由があろうとも暴挙としかいいようがない。ゆえに本作品はどうみてもまっとうな「反戦ドキュメンタリー映画」ではない。
それでは監督の原一男の意図はどこにあるのであろうか?それはわたしが思うに「孫の面倒見の良い優しいおじいちゃん」(旧陸軍の上官)が奥崎謙三という「怪物」の出現によって取り乱し、その本性を暴かれてゆくことであると思われる。暴かれるべきものは戦争犯罪ではなく「人間の本性」なのだ、それが監督の原一男の意図に思われる。本作品を「政治的イデオロギーの映画」と思って観る前から嫌っているひとがいたらぜひ本作品を騙されたと思ってみてほしいと筆者は思う。政治的訴えではなく「人間の化けの皮を剥ぐ」、それが本作品のテーマであるのだろう。必見の価値のある傑作。
1979年富野喜幸監督作品
1979年に放映され、その後、熱狂的なブームを形成していったアニメ番組『機動戦士ガンダム』の新編集・総集編を三回に分けて映画館用に制作したものが本作品である。第一作は『機動戦士ガンダム』、第二作が『哀・戦士』、第三作が『めぐりあい宇宙(そら)』である。
さて筆者はは学生時代から現在まで計三回、この三部作を観ている。正直な感想は一回目・二回目は「どうもピンとこない」というのが正直な所であった。今回機会があり三回目を観てようやく自分がこの作品を観てもピンとこない理由がわかった気がする。
まずこの作品は「SF映画」であり、「宇宙を舞台としている」のに「異星人」が登場しない、これがわたしのモヤモヤの核心であったようである。『スター・ウォーズ』にしろ『エイリアン』にしろ著名なSF映画には必ず「異星人」が登場している。しかし本作品にはそのようなものは影もカタチも登場しない。描かれるものはひたすら「宇宙における人間どうしの戦争」なのである。もちろん「モビルスーツ」や「ニュータイプ」などSF的な味付けが為されていることは確かである。それなのに筆者の眼には本作品が「SF」というより「宇宙における戦争映画」に見えてしまう。なぜなら「SF」とはやはり「未知との遭遇」が存在することが基本であると思うからである。
もちろんこれは批判ではない。そういう作品があっても良いと思う。しかし『マジンガーZ』や『ガッチャマン』世代の筆者の眼にはやはり本作品は少々不思議に見えるのである。なぜならば「アシュラ男爵」にしろ「ベルクカッツェ」にしろ、彼らは「人外の者」であり、本質的には「異星人」と変わらないからだ。本作品の悪役「ザビ家」はどうみても普通の人間である。
しかしそういう色眼鏡を外して本作品を鑑賞すれば第一級の人間ドラマにしあがっている。主人公・アムロの成長、そのライバル・シャア、そしてランバラルやララァ、セイラやフラウボなど魅力的な登場人物が活き活きと躍動する。
オールド・ロボットアニメファンの方々も先入観を抜いて本作品をぜひ観てほしいと思う。全く新しい映像体験ができるのは確かである。「SF」と「人間ドラマ」の間に出来た子供ともいうべきまさしくニュータイプの作品である。
1994年ステファン・エリオット監督作品
さて唐突に宣言してしまうが、わたしは「ゲイ映画」とか「レズビアン映画」とか、そういう映画は苦手である。理由は簡単である。そういう映画は(もちろん例外もある)たいてい、「ゲイ解放」「レズビアン開放」のアジテーション映画になっている場合が多いからだ。もちろんその種の映画を頭から否定するわけではない。しかし映画を一期の夢としてみるわたしから見れば映画のなかに「社会問題」を持ち込んで観客をアジる態度には嫌悪感が先にたつ。
さて本作品「プリシラ」である。オーストラリアの砂漠を熟年、中年、青年の三人のオカマがおんぼろバスで疾走する。そして笑いあり涙ありの人情派ロードムービーが展開する。もちろんオカマたちに対して住人たちの迫害も描かれている。しかしそこをきわどく描かないで、すっきりとストーリーの一部に取り込んだのは監督の力量であるだろう。
また本作品はアカデミー衣装賞を受賞しているだけあって、オカマたちの衣装が抜群にセンスが良い。もちろんこれは単に派手という意味ではない。砂漠の風景とオカマの衣装がピッタリと融合して独特な映像美を醸している。これもまた監督の抜群のセンスによるものとしかいいようがないものだ。
ラストはネタバレになるので言わないが、素晴らしいの一語につきる。このラストも観れば映画の観客たちの日常の憂鬱もどこかに吹っ飛んでしまうだろう。
ゲイ映画を「社会運動」とか「耽美」という側面から見せるのではなく、ゲイもまた悩めるひとりの「人間」なのだ、と観客に納得させてしまう正統派人間ドラマとしての新世代ゲイ映画の傑作。一見の価値大いにあり。