2014年黒猫館館長の誕生日記念イラスト
(ドラゴン・キッド(『タイガー&バニー』より)
さて先日はわたしの誕生日であった。
同郷の友だち、傷まめこさんがタイガー&バニーの素晴らしいイラストを描いてくださった。
ありがとう。
それなら「みんな、ありがとー!!」と両手を挙げて祝ってくれたみなさんに感謝の念を表わしたいのであるが、生来の憂鬱性気質がどうもそういうことをさせてくれない。
むしろ「誕生日とはなんだろうか・・・?」
と考え込んでしまうのである。
ここで「館長のやつはなんてクライヤツなんだろう!?」
と思う方がいるかも知れない。わたしも自分をクライと思う。
しかしこれは持って生まれた気質がそのようにさせているのである。であるからなんとかご容赦いただきたい。
さて人間という者は若い頃は「すべて」を所有している、と言っても過言ではない。
「若さ」を持ち、「将来」を持ち、「美貌」を持ち、「しなやかな肉体」を持ち、「時間」を持ち、「両親」を持ち、「祖父母」を持っている。
しかし歳を取るにつれて、これらをひとつづつ失ってゆくのだ。
「若さ」を失い、「将来」を失い、「時間」を失い、ある者は「両親」を失う者もいるだろう。そして最後は「自分の命」を失うのだ。
これだけなら「歳を取る」ことは悲しいことでしかない。
しかし人間というものは歳を取ると共に「経験」を得ることが出来る。
この「経験」こそ年長者が若者に抗することのできる最後で最大の武器だ。
経験を経れば人間というものがわかってくる。
人間というものがわかってくればおのずから人間に対して優しくなれる。
わたしはこれは非常に大きなことだと思う。
「歳を取れば丸くなる」という諺があるが、むしろ「歳をとれば優しくなれる」と言い換えるべきだと思う。それほど歳を取れば他人の痛みというものがわかってくる。世間人海(せけんじんかい)の苦しみに対して共感の念が沸いてくる。
これはあまりにも大きな「経験」で得ることのできる大きな収穫ではなかろうか?
18世紀の哲学者・ショーペンハウアーは「人間を救うものは『共苦(ミッドライド)』でしかありえない」と説いた。わたしも切実にそう思う。
そういう意味で「共苦」の精神をもたらしてくれる「年齢」という「経験の束」を刻んでくれる誕生日に素直に感謝したいと思う。
ありがとう。
最後に誕生日になるといつもわたしのこころにはこの一編の詩が浮かんでくる。
無念と怒りをかみ締め続けた若き日々の回想であろうか。
誕生日という記念日には必ずこの詩が浮かんでくるのだ。
今日は特別に「わがこころの詩」ともいうべき「戦士の休息」をこの日記に筆写することで日記を締めようと思う。
『戦士の休息』寺山修司
「ふりむけば
いまも喝采がきこえる
戦っている自分がみえる
ふりむけば
心臓にこだまする汽笛がきこえる
家を出た日の夜明けが見える
ふりむけば
ほつれた髪の一人の女が見える
鉄路に叩きつけられたウィスキーの空壜
挫折もあったし
まわり道もあったのだ
ふりむけば
包帯ににじんだ血をじっと見つめてる
四回戦ボーイがみえる
人生にたった一つの椅子をさがして
さまよってきた俺が見える
ふりむけば
倒れてゆくあいつの顔が見える
同じ夢に賭けたあいつの美しい無念が見える
ふりむくな
ふりむくな
男のうしろにあるのは
いつも荒野ばかりだ
俺の捨てた栄光のベルトにむらがる
飢えた奴らの雄叫びに耳をふさごう
人生は終わりのないロードワーク
何一つ終わったわけじゃないのさ
さらば、友よ!」
さて、「さらば友よ!」でカッコよく締めたいところであるが、そう締めるにはわたしは優しくなりすぎたようだ。そこで最後の部分をこう書き換えて本日の日記も終了することにしよう。
「ようこそ、友よ!
これからもよろしく!!」
それでは。
(了)
(黒猫館&黒猫館館長)