春四月、桜の下で

 

 

 冬は終わった。
 輪転する季節。
 陽だまりの中、わたしは想う。
 春がきたのだ。
 すべてが萌えだす春が。
 

 わたしは青い空の下に広がる池を観るために庭へでる。
 わたしの愛しい金魚と鯉の様子を見るためである。
 厳しい寒を越え、去年より一層澄み渡った池 を棒切れでかき回す。
 すると金魚と鯉がスーーーー、、、と池の下層から浮上してくる。

 彼らは一匹残らず生きていたのだ。
 今回の88年ぶりの極寒を乗りきって。
 わたしはその生命の強靭さに驚嘆する。
 その小さな身体に宿る生命の神秘に感動する。
 
 ちやぷちやぷと水面でえさを乞うその姿がなんとも愛(う)い。
 春とは生命の息吹を感じる季節なのだ。

 
 さて庭を見ると梅の花が咲き出している。
 渋い梅も善いがやはり春は桜であろう。
 特に酔っ払いどもが騒がない深夜に公園でひとり茶を飲みながら夜桜を観るのが善い。
 わたしの地方の公園の桜は白い。
 人生の白秋を思わせる色だ。
 しかし春に観るのならわたしは市外の川べりにあるまだ若い桜を観たい。
 若い桜は薄い桃色をしている。
 力強い生命力を感じさせる色だ。

 夜桜で若い桜を観る。
 そのあまりの艶かしさ。
 わたしはその艶(えん)に不吉なものを感じる。
 死の予兆にさえ思わせる。

 病んだ老人が死を想うことは少ない。
 しかし若者は死に憧れる。死から最も遠い位置にいるが故に。


 「願わくば花の下にて春死なむ
           そのきさらぎの望月のころ」

                 西行法師


 西行は生命の死に絶える冬に死を願うのではない。
 生命力が燃えいずる春だからこそ死を想うのだ。
 青春とは死を想う季節なのである。
 長編異色推理小説『虚無への供物』の作者、塔晶夫は「五月は喪服の季」と詠った。
 ならばわたしは四月は臨終の季と詠おう。
 
 春とは生命に秘められた死を垣間見る季節なのだ。

 しかしこの春もやがては夏へと増長し、秋へと萎み、最後には冬への道をとぼとぼと歩きだすだろう。
 終わることのない生命の輪転。
 それは地球のいのちの脈動、
 そしてまた人間の一生の縮図。

 わたしはこの桜の季節をまったき喜びと共に、
そして、その内部に内包した悲しみと共に受け入れよう。

 春だ。
 今年も春がやってきたのだ。


 
「若草の萌えいずる春・猫の恋・直情なるものなべてを愛す」
勝部祐子第一歌集『解体』(不識書院)より引用。

 

(黒猫館館長・作)