ママに会うために生まれてきたんだ
(2004年晩秋の朝に)
11月下旬。
暗雲が立ち込めた鉛色の朝。
わたしが住んでいる地方では12月に入るともう晴れるということはない。
雪か雨か曇天が4月明けまで延々と続くのだ。
それは生命を拒絶する極寒の季節である。
毎日のように、冬を越されなかった老人の死が新聞に掲載される。
そんな冬がこれからくるのだ。
わたしはいつものとおり不機嫌な顔で新聞を持ってテーブルに座った。
わたしはいつも新聞を社会面から読む。
わたしはおもむろにその日も社会面を開いた。
「憲法改革草稿、自民党が提出」
「政府税法調査会、定立減税の廃止を要求」
「靖国神社、首相の参拝は「公式」東京地方裁判所」
「奈良小学一年女児誘拐犯によって殺害か?」
そんな記事の中にわたしは偶然に、全く偶然にそのコラムを発見した。
それは「子供の詩」という小さな、本当に小さなコラムだった。
そのコラムの第一行目にはこう書かれていた。
「ボク、ママに会うために生まれてきたんだ」
わたしは一瞬、眼を疑った。
いや、疑ったのではなくその詩から溢れる光のオーラが、まぶしすぎたのかもしれない。
その一行の詩には存在の深奥の秘密。
他者との邂逅の歓び。
そして生誕の意味への回答が
すべて生き生きと封じられていたのだ。
そのなんという素直さよ!
そのなんという洞察の鋭さよ!
ショウペンハウエルの存在の苦悩も
ニーチェの永劫回帰も
とてもこの一行の詩には遠く及ばない。
この詩を書いたという三歳の男児もまた
やがて少年となり、
そして青年期を迎え、
やがて生涯の伴侶となるべきひとりの女性と出会うだろう。
その女性の中にかっての若き日の母の面影を見出して。
それはまた新たな生命の物語の始まり。
このコラムを読んだわたしは普段より朝食が早く進むのを感じた。
家族の顔が普段より穏やかに見えた。
窓の外に広がる暗雲に一条の光が差しこんでいるのが見える気がした。
生と死の果てしない葛藤。
あるいは希望と絶望のせめぎあい。
それはわたしのなかでこれからも続いてゆくだろう。
しかし今朝読んだ一行の児童の詩はほんの少しわたしを生の側に引き寄せたようだ。
朝食を食べ終わったわたしは今日一日の作業をするため席を立つ。
さきほど読んだ新聞を丁寧に折りたたんで。
(2004年11月17日決定稿)